伊坂幸太郎「アヒルと鴨のコインロッカー (ミステリ・フロンティア)」

mike-cat2006-06-11



吉川英治文学新人賞受賞作にして、
2004年の「このミス」国内編2位の〝あの作品〟。
刊行された頃は伊坂幸太郎に興味がなかったし、
その後は何度となく読もうとしていながら、
その度に「もうタイミング外しちゃったしな…」と、
何となく読みそびれていた話題作に、ついに手を出す。


仙台の大学に進学した〝僕〟が、引っ越し先のアパートで出逢ったのは、
まず「シッポサキマルマリ」で、次が悪魔のような風体の「河崎」と名乗る男。
その河崎がいきなり切り出したのは、あろうことか強盗のお誘い。
それも、襲うのは本屋、奪うのは広辞苑、と、目的は謎ばかり。
とんでもない誘いにも関わらず、なぜか〝僕〟はモデルガンを手に、書店へと向かうのだが−


実際の強盗場面で幕を開けるその〝事件〟は、
「現在」を語る〝僕〟と、「二年前」を語る〝わたし〟による二層構造で語られていく。
思わず目を引く導入部から、伏線の張り方、そしてひねり、
伊坂作品ならではの、魅力的な登場人物たちによる、会話の妙といい、
なるほど傑作の誉れ高い理由が、ひしひしと伝わってくる小説だ。確かに面白い。


面白いんだが、個人的にはどうにも好きになれない作品だ。
理由は2つ。
まずは動物を殺さないで欲しい。それも悪戯目的で。
ペット殺しという題材そのものが不愉快だし、それを扱う必然性をそこまで感じない。
「(小説・映画の中で)人殺しはよくて、動物殺しがなぜいけない?」
そういう疑問を投げかける筋もあるだろう。
だが、人間同士が人間内の事情において殺し合うのは勝手だが、
たとえ小説の中でも、十分な抵抗能力すらない動物を殺すのは許せない。
これを読んで模倣犯がでる、とかそういう次元ではなく、だ。
そもそも、悪戯目的のペット殺しなんて、描く意味がどこにあるのか。
そのペット殺しが、まさしく因果応報を味わわせられるにしても、やはり不快に過ぎない。


巻頭、そして巻末に映画でよく見るクレジットが挿入されている。
〝No animal was harmed in the makingu of this film〟
あるいは
〝No animal was harmed in the makingu of this novel〟と。
もちろん、執筆に当たって実際に実験していないことを示しているという意味ではなく、
あくまでお話ですよ、というただし書きに過ぎないのは承知しているが、
それにしても、わざわざ小説の世界で、こういう真似をするのはいただけない。
あくまで個人的な見解ではあるが、
アモーレス・ペロス」などのごくごく稀少な例外をのぞいては、
犬猫殺しの場面が挿入される、もしくは匂わされるだけでアウト、なのである。


理由その2。
〝わたし〟こと琴美の行動が、いまひとつ納得できない。
対処、という表現の方が正確だろうか。
詳しくは書かないが、ただただ脅えているだけの女性とも思えない琴美が、
〝事件〟に対して、果たしてああいうアプローチを取るのだろうか。
どう考えても、不愉快な結末を前提にした強引さが感じられてしまうのだ。


そしてその不愉快な結末そのもの、だ。
どう考えても、フェアじゃない。
いや、世の中は不愉快なことであふれているし、フェアなんて絵空事に過ぎない。
だが、物語、それもどこか空想めいたこの物語世界でまで、
そうした不愉快で不公平な結末を押しつけられるのは、どうにも楽しくない。
流れを無視したハリウッド流ハッピーエンディングを100%擁護するわけでもないが、
少なくとも、こんな結末を突きつけられるくらいなら、読むなければよかった、とも思う。


もちろん、こちらの理由もあくまで個人的な価値観と相容れないだけだから、
作品のテクニカルな部分などについての価値をどうこういう気はない。
むしろ、最初にも書いた通り、傑作のレベルにはあると思う。
だが、それでもこの小説は、率直にいって許せない。
何でこんなにイヤな思いをさせられなければならないのか、よくわからない。
切なさ、哀しさ、不条理、矛盾をモチーフにした小説はやまほどあるし、
そういった小説は、むしろ好きなのだが、この小説で描かれる不快感は耐えられない。


ある意味、この本を読むのが遅くてよかったのかも知れない。
最近の伊坂作品を読んで(ようやく)ファンになったので、
この作品に触れるのが遅かった。
この本を最初に読んでいたら、たぶんその後まったく手を出さなかったかも…
それくらい、個人的なモラルコードを刺激した、イヤな〝傑作〟だった。