森絵都「風に舞いあがるビニールシート」

mike-cat2006-05-31



永遠の出口 (集英社文庫(日本))」「いつかパラソルの下で」の森絵都、待望の最新作。
〝大切な何かのために懸命に生きる人たちの、6つの物語〟
6編の短編は硬軟織り交ぜつつも、
森絵都らしい、凜とした志とほのかな暖かみに満ちている。
これまでも数々の傑作を送り出してきた作者だが、これもまた傑作。
さらに、今後もっととんでもない作品を世に送り出すんじゃないかと、
予感と期待を抱かせるような、意欲的な部分を感じる作品だ。


「器を探して」は、ケーキに人生を賭ける弥生の物語。
人気店「ラ・リュミエール」のオーナーパティシエ、伊形ヒロミの専属秘書を務める弥生は、
クリスマスイブ、それも恋人がプロポーズを約束していた夜に、急きょ出張を言い渡される。
お題は「桃のプディング」に合わせる、美濃焼の器探し。
大好きなケーキと仕事のギャップ、そして恋人との板挟みに悩む弥生の姿が描かれる。


弥生のケーキに対する想いがいい。
ヒロミは人格こそムチャクチャだが、ケーキの味だけは完璧だ。
〝ここにたしかな幸福がある。手を伸ばせば簡単に触れられる。
 その触感を、香りを、味わいを全身でむさぼれる。努力も我慢もいらない。
 投資も貯蓄もいらない。学歴も資格もキャリアも関係ない。
 このわかりやすい小さな幸福を弥生は信奉した。〟
だからこそヒロミの理不尽な要求も、弥生は甘んじて引き受けていく。


こういった物語では定番の、彼氏との板挟みだが、森絵都の描くそれはなかなか独特だ。
なかなかつまらない男なのである。
結婚後の仕事に対し、よぶんな口は出してくるだけではない。
数百円のケーキと、数億円を動かすとかいう自分の仕事と引き比べ、けなしもする。
〝では、あなたはその億単位の金で誰を喜ばせたのか。〟
そんな想いを抱きつつ、弥生の取った選択が、なかなか深い。
僕なんか、そんな男は捨ててしまえ、と単純に思うのだけど、弥生は簡単には投げないのだ。


「犬の散歩」は、犬の里親探しのボランティアに邁進する恵利子の話。
里親が見つかるまでの家を提供する恵利子と、犬たちの物語が切ない。
なかば虐待されて育った「ビビ」と、
溺愛されて育った「ギャル」を連れ、恵利子はきょうも散歩に出かける。


普通の文脈でいくと、ただただ美しい動物物語、なのだが、
森絵都の筆致はそれを、単純に美化したり、甘い感傷でごまかすことはしない。
たとえば、恵利子は、ボランティアにつぎ込むお金を、夜のバイトで稼ぎ出している。
「憩い」という名の、どこかゆるい雰囲気のバーだったりする。
そして、里親探しのボランティアを始めるきっかけが強烈だ。


ボランティア仲間の尚美に連れて行かれたのは、いわゆる収容センター。
そこで尚美はこう言い放つ。
「保護運動とか言ってもね。私たちが救い出せるのはこの中の一割にも満たないの。
 ぜんぶを救うには人出も資金もとうてい足りないし、
 そんなことしてたらすぐに活動自体が破綻しちゃう。
 だから、私の中にいつもあるのは、自分はこの犬たちの一割を救ってるんだ、
 という思いじゃなくて、ここにいる九割を見捨ててるんだって思いなの」


多くの犬たちを救ってもなお背負わなければならない十字架が、そこにはある。
さまざまな矛盾や不条理を抱えた上で弥生は、
犬たちにせめてもの幸せをもたらすべく、奮闘していく。
だからこそ、物語のラストがもたらす感動が、グッとこころに染み込んでくるのである。


「守護神」は、大学の夜間部が舞台だ。
レポートの代筆をしてくれる伝説の〝守護神〟ニシナミユキと、
同じ大学に通うフリーターの裕介の物語。
ニシナミユキが代筆を引き受けるに当たっての、選考基準をめぐっての問答が面白い。
「鐘の音」は、仏像修理師たちのある仕事に隠された、〝過去の秘密〟の物語。
詳細なリサーチに基づくウンチクとともに、修理師の仏像に対する思いがつくづく味わい深い。
「ジェネレーションX」は、クレームへの謝罪に向かう車中が舞台。
運転を人に任せ、携帯で話し続ける20代の石津と、40を目前にした健一。
形ばかりの世代論に当てはめられない、ドラマがそこにはある。


そして表題作の「風に舞いあがるビニールシート」だ。
〝愛しぬくことも愛されぬくこともできなかった日々を、今日も思っている。〟
国連難民高等弁務官事務所で、現場主義を貫いたエドとその妻里佳。
難民救済の現状を、強風で飛ばされ、ひき裂かれそうなビニールシートに例えるエド
家庭のぬくもりを拒絶し、現場での使命感に駆られるエドと、
エドを癒やし、ふたりの間の温もりを大事にしたい里佳との擦れ違い。
そして、起こるべくして起こった悲劇と、その爪痕…


別れの朝、ワニのゴム人形をめぐるエピソードが、とても秀逸だ。
だが、徐々にエドを理解し、悲劇を受け止めていく里佳の姿は哀しくも美しい。
そして迎えるラスト。
こうなって欲しい、こうなるだろうな、という結末ではあっても、
そこまでのストーリーを物語る、確かな筆致が、予想外の涙を誘う。
つくづく、「降参!」としか言いようがないくらい、こころにドーンときてしまうのだ。


というわけで、最初にも書いた通り、読み応え十分の1冊。
いかにも森絵都らしいな、と思う半面、
この作家って、こういう小説も書けるんだ、という驚きにも出逢える短編集だ。
ファンならずとも、必読の1冊。そう言い切れる、傑作だった。


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