光原百合「時計を忘れて森へいこう (創元推理文庫)」

mike-cat2006-07-04



〝語り手と一緒に、物語<ミステリ>の森をさまよってみませんか〟
〝ミステリ作家光原百合のデビューを飾ったどこまでもピュアな物語〟
十八の夏 (双葉文庫)」「銀の犬」の作家によるデビュー作、
8年の歳月を経て、ロングセラーがようやく文庫化された。


買ってすぐ文庫化されてもなあ…、なんて思いもあって、
いままで温存してきたのだが、読んでみて「しまった!」である。
「もっと早く読めばよかった!!!」の傑作だったのだ。
いや、「!」マークはもっとあってもいい。鬱陶しいから3つにしておくが。


主人公の〝わたし〟は、父の仕事の都合で清見に越してきた女子高校生。
不可解な出来事に遭遇し、森を訪れた〝わたし〟が出逢ったのは、
環境教育に取り組む自然解説指導員<レンジャー>の深森護さん。
森を愛し、自然とともに生きる護さんは、
モザイクのように入り組んだ謎を優しい視点で解いていく、こころの探偵でもあった。
信州・清海の自然に抱かれながら、〝わたし〟は、
護さんとともに誤解が生んだ怒り、哀しみを解きほぐしていく−。


いわゆる日常ミステリ、のカテゴリーに入る作品である。
主人公は女子高校生、探偵役は自然解説指導員、とくるば、
そこにイメージされるのは、エコロジーだとか、癒やし、という言葉だろう。
だがその、時に安直に用いられる〝言葉〟に引きずられ、
「そのテの作品か」と安易に考えてしまったら、大間違いである。
事実、作品には自然への限りない愛情や、優しい物語があふれている。
だが、それは一部の環境活動家の言動に見られるような、
エゴイスティックなエリート意識とはまったく違うものであるし、
〝優しさ〟と〝易しさ〟をはき違えた、安っぽい癒やしともまったく違う。
自然とまっすぐに向き合い、あるがままの自然を受け容れる姿勢、
そして、時に厳しさ、苦しさを持って体現していく、本当の優しさが描かれる。


物語そのものの語り口や、登場人物たちの言動など、
作品の随所には、青さや硬さも入り交じる。
それはある意味、未整理な感情といってもいいかもしれない。
文章そのもののテクニカルな面にしても、どこか〝甘さ〟はあるのかもしれない。
主人公・翠が見せる、少女時代ならではの繊細さとニブさが混じり合った感覚に、
気恥ずかしさ、みたいなものを感じることも、ないわけではない。
だが、そうした部分は一方で、この小説の味わいでもあるし、
それ以上に物語そのものの持つ、
繊細かつ鮮烈な魅力が、この作品の随所にあふれ返っているのだ。


たとえば、護さんのキャラクターだ。
自然解説指導員の仕事は、自然を教え込むことではない。
人間が自然と接する中で不可避な、何かを傷つけることとの折り合いのつけかた、
そして自然を知るのではなく、感じるための道案内。
それを頭ごなしに押しつけることも、決してない。
〝いつも少し困っていて、少し悩んでいて、少し哀しそうだ。
 −そう、それなのになぜか−いつも満ち足りて幸せそうなのだ。〟


第二話で登場する牧師も、好感の持てる人物だ。
愛する〝加寿美さん〟を不意に失った、
〝篠田さん〟に対し、かける言葉を見つけられない。
憤りをぶつけてくる篠田さんを前に、思い悩む。
「私は…信仰が足りないのかな。篠田さんに何もいってあげられない。
 どうして加寿美さんが死ななければならなかったのか、答えを示すことができない。
 『すべては神の計らいです』と、どうしてもいえないんですよ」
信仰が足りないのではない。それこそが、〝まともな人間〟の感情である。
たとえ牧師であっても、安易に神の名を口にすることは許されない。
無宗教な僕がいうのも何だが、
この牧師のように思い悩む人間にこそ、本当の信仰があるのだ、と考えたい。


〝わたし〟と父の「三つのお願い」権のエピソードも心に残る。
若杉家の教育方針はこうである。
〝何かを頼むときはよく考えて、心から大切と思えることだけにしなさい。
 何十年経って振り返っても、これでお願い権を使ったことを、
 後悔しないようなことだけにしなさい。そういう願いごとであれば、
 親にできることなら必ず、何もいわずにかなえてあげるから。〟
もちろん、必需品は別、である。それは説得すればいいだけの話。
自分にとって、いったい何が大事であるのか、本当はどうしたいのか、
きちんと考える機会を与える、この教育方針、
子供がいれば即採用したいくらい、グッとくるものだな、と思う。


もちろん、ミステリ的な部分でも、十分楽しませてくれる作品だ。
同級生の謎の言葉と、優しい先生の不可解な暴力の謎を解く第一話、
愛する人を失い、悲しみに暮れる篠田さんの心を解きほぐす第二話、
母を失い、拒食症に陥ってしまった女性に、優しく働き掛ける第三話と、
どれも単なる謎解きに終わらない、味わい深いドラマが展開される。


忘れ得ぬ物語、といったらいいのだろうか。
しんしんと心に響き、優しい気持ちにさせてくれる、希有な作品だ。
もし、中学生、高校生の甥や姪でもいたら、ぜひ薦めたいし、
ハードカバーで買い直して、本棚の大事なところにいつまでも並べておきたい1冊。
ちょっと出逢うのは遅れてしまったが、
この素敵な作品にめぐり逢えて、本当によかったと思う。


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