桐野夏生「ダーク (上) (講談社文庫)」「ダーク (下) (講談社文庫)」

mike-cat2006-05-08



顔に降りかかる雨 (講談社文庫)」「天使に見捨てられた夜 (講談社文庫)」の
私立探偵、村野ミロ・シリーズの完結編、ともいえる。
なのだが、シリーズのファンから大きな論議を呼んだ作品だ。
このシリーズ、キャラクター編ともいえる「ローズガーデン (講談社文庫)」や、
義父・村野善三の活躍を描いたスピンオフ、
水の眠り 灰の夢 (文春文庫)」など、ハードボイルドの傑作と知られるが、
どうにもこの「ダーク」は趣を異にしている感が強い。


上巻のオビが、かなり違和感を覚えさせる。
〝名前、肉体、そして魂。すべてを葬り去りたい〟
前作までを読んだのがけっこう前なので、記憶は不確かだったが、
村野ミロって、そんなに捨て鉢な感じだったろうか…
その違和感は、ページを開いて一層強まる。
〝四十歳になったら死のうと思ってる。現在三十八歳と二ヵ月だから、あと二年足らずだ。〟
いつの間にそんなことになっていたのか、驚きのままにページをめくる。


物語は、「顔に降りかかる雨」で登場したフリーライター
宇佐川燿子の母、登美子からの思いがけない手紙で幕を開ける。
千葉の老人ホームへと、登美子を訪ねたミロは、信じられない報せを耳にする。
凶暴な衝動と虚無感に駆られたミロは、小樽に隠棲した義父、善三を訪ねる。
そこで起きた事件が、ミロに当て所のない逃避行を強いるのだった−
舞台は東京を離れ、小樽、福岡、そして釜山へ、迷走を続ける。


ミロを始め、そして過去のシリーズで登場した善三、鄭、友部…
裏の世界の住人でありながら、どこか輝きを放っていた登場人物たちが、
いずれも変容し、醜く、弱い一面をさらけ出す。
その様子は〝なれの果て〟という言葉が似合うほど暗く、虚しさに満ちている。
騙し、殺し、溺れ、逃げる。
そんな畜生道に墜ちていくミロの姿には、思わず目を背けたくなる。
なるほど、シリーズのファンが怒りを覚えた理由も、よくわかる。
前作までをろくに覚えていない自分ですら、どう受け止めていいのか、戸惑う作品だ。


過去のエピソードが印象的だ。
死にゆく母の願いを振り切り、臨終の場から逃げ出したミロを、鄭が迎えに行く。
無理矢理逃げ出した件を切り出され、身構えるミロに鄭はこう言い放つ。
〝「それでいいですよ」
 「なぜ?」
 「冷たいようですが、そのくらいの負い目を持った方がこれから生きやすい」
負い目・その言葉は私の胸の奥底に届き、棲み着いた。
負い目は私を生きやすくする。どういうことなのかわからなかった。
中学生の私にはひどく残酷な言葉に思えたが、一方で救いもあるような気がする。
しかし、尋ねようにも、鄭は腕組みして目を閉じたままだった。〟
ここである程度、この小説の正体が見えてきた気がした。
つまり、この作品はハードボイルド作品の続きでありながら、ノワールなのである、と。


そう思って読み続けると、当初感じていた違和感が次第に消えてゆく。
いわゆる娯楽小説としては、ルール違反とも思える暴力の数々、
そして、戒厳令に対する人民蜂起と、全斗煥による弾圧で、
1000人とも2000人ともいえる死者を出した、1980年光州人民蜂起を始め、
不快感を感じさせるような場面も、何となく流れとしては自然な感覚になっていく。


新たに登場する徐鎮浩との覚醒剤を介したセックスが、
ミロの人生に新しい発見をもたらす場面まで登場する。
〝私の知っている性交は欠落と補塡の繰り返しに過ぎなかった。
 自分に足りないものを相手によって埋めて貰おうとすること。
 だが、昨夜の性交は、欠落を更に大きく広げた。
 補塡などしようもない大きな深い欠落。
 埋めても埋めてもすぐに足りなくなるくらいの欠落。
 そして一緒に欠落の深い穴に落ちていったのだ。
 自分はどんどん違う人間になっていく。嬉しさのあまり、私は徐のペニスを乱暴に摑んだ。〟
破滅のストーリーの臭いすら、漂ってくる展開。
ミロはかつてのヒロインではない。アンチヒロインですらない。
ひとりの壊れた人間として、その弱さを存分に見せつけてくるのだ。


善三の内縁の妻として登場する、久恵も異彩を放つ登場人物だ。
緑内障によって、突如視力を奪われた大柄な女。
失った視力の代わりに、さまざまな感覚が研ぎ澄まされた女が、
復讐に目覚めた時、その女はひとりのモンスターへと変貌していく。
その哀しさは、理由やその壊れ方は違っても、ミロと相通じる何かを感じさせる。


そして物語は、行き先を見失ったような感触を保ったまま、終末を迎える。
このラストをどう受け止めるか、正直、ミロのファンには堪え難いものもあるだろう。
いや、単純に一般的な読者の立場としても、容易には受け容れがたい微妙な話でもある。
ただ東電OL殺人事件をモデルにした「グロテスク」などと並べると、
その悪意に満ちた物語、そしてその行く末も、どこか納得のいくような気がしてくる。


桐野夏生が果たして何を目指したかったのか。
ミロはもともとそういう宿命のもとにあったのか。
それとも、探偵ミロに魅せられ、その世界に安住しようとした、
(僕がそう思ってるわけではなく、あくまで想像だが作者がそう思ったとして…)
ファンへの意地の悪い、へそ曲がりな悪戯なのだろうか−。
真相はどうあれ、独特の後味の悪さが、
悪い意味でもいい意味でも(かなり微妙だが…)尾を引く「ダーク」なのであった。

Amazon.co.jpダーク (上)ダーク (下)