カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)」

mike-cat2006-05-09



〝『日の名残り (ハヤカワepi文庫)』のブッカー賞作家が
  渾身の力で描くスリリングな冒険譚。〟
〝探偵は魔都上海に舞い戻った。
   両親失踪の謎に挑むために。〟


この作品、これまでタイトルしか知らなかったのだが、
重厚な文学かと思っていたので、手を出しそびれていた。
しかし、最新作「わたしを離さないで」同様、
アプローチの斬新さは文学だが、内容は立派なエンタテインメントなのだ。


主人公はロンドンで私立探偵を営むクリストファー・バンクス。
いくつもの難事件を解決し、社交界の名士でもある彼のライフワークは、
生まれ故郷でもある上海での、両親の謎の失踪の真相をものにすること。
十歳で孤児となった彼は、ロンドンの寄宿学校を卒業し、探偵を目指した。
長年によるリサーチを終え、いよいよ思い出の上海に向かうバンクス。
しかし、そこは日本軍と共産軍、蔣介石の国民党が相まみえる戦地。
そして、そこはどこか焦点がねじれた、魔都でもあった。
見えそうで見えてこない謎に迫るべく、バンクスは迷宮に入り込んでいく−。


実はこの物語、年老いたバンクスの回想という形で描かれている。
そして、その回想というのが、ある意味ポイントでもある。
背表紙の説明にもある通り〝記憶と過去をめぐる至高の冒険譚〟。
バンクスの記憶はおぼろげであやふや、
そしてところどころ周囲の人間と、事実関係が食い違う。
つまり、バンクスは、どこか〝信用できない語り手〟なのである。


物語の冒頭、寄宿学校時代の友人、オズボーンとの会話で、
バンクスがお互いの記憶に食い違いを感じ、戸惑う場面がある。
「まったく、きみは学校でも変わっていたからな」
〝オズボーンがわたしのことをあんな風に言ったのが、ずっと気になって仕方がなかった。
 自分の記憶では、わたしはイギリスの学校生活に完璧に溶け込んでいたはずだから〟


また、両親の失踪後、イギリスへ戻る船上での記憶も食い違う。
同行してくれたチェンバレン大佐が、当時のバンクスの様子を
〝内気で、気分屋で、ちょっとしたことですぐに泣きだした〟と繰り返す。
だが、バンクスはその会話に苛立ちを募らせる。
〝というのも、わたし自身のひじょうにはっきりしている記憶によると、
 わたしは自分をとりまく現実の変化にひじょうにうまく適応していったからだ・
 あの旅はみじめだったどころか、船上での生活にも、
 さらにその先に控えている将来の展望についても、
 わたしは積極的に胸おどらせていたことをはっきり覚えている〟


両親の失踪、という〝全世界が目の前で崩れるような〟事件後、
孤児となった少年に対する視線というのは、ある意味とてもステレオタイプになるだろう。
ちょっとしたひと言が、必要以上の関心と同情を集める。
バンクス自身の気負いのようなものも、他人の目からは悲痛に映るはずだ。
だから、他人から見た記憶とバンクス自身の記憶はどこか食い違う。
だが、そこには、バンクス自身の記憶のあやふやさも入り交じる。
無意識の中での記憶操作、といったらいいのだろうか、
いわゆる記憶の美化であり、都合よく記憶をすり替えるという、無意識の心理的防衛だ。


そして、その改竄されたとも思われる、あやふやな記憶は、
物語の大きな謎の真相追求においても、ほぼ同様にバンクスを戸惑わせる。
過去の記憶がぼやけはじめ、思い出せずにじたばたする。
上海の生活のイメージは、ごくわずかのあいまいなイメージだけに変わりつつあった。
だから、その失踪の謎に迫る場面でも、
どこか霧のかかったような、というか、空間がねじれたような、不条理感が漂う。


真相にどんどんと迫りながらも、どこかそれは真相ではないような、不思議な感覚だ。
それは両親を失った孤児としての境遇とどこか相通じる、
喪失感、という言葉でも表現できるような気がする。
だから、心躍る冒険譚なのに、つねに物語には哀切の香りが漂う。
社交界で輝けるような成功を狙うサラ、バンクスが引き取った身寄りのないジェニファーら、
バンクス同様、孤児の境遇を強いられた人たちとのエピソードも挿入され、思いは強まる。


回想を続けてきたバンクスの現在を語るラストが印象的だ。
さまよい歩き、ようやく真相をつかんだその時でも、バンクスの心は晴れない。
〝わたしたちのような者にとっては、消えてしまった両親の影を
 何年も追いかけている孤児のように世界に立ち向かうのが運命なのだ。
 最後まで使命を遂行しようとしながら、最善を尽くすより他ないのだ。
 わたしたちにこころの平安は許されないのだから。〟
読む者の心に複雑な澱のようなものを残す、味わい深い結末だ。
さわやかな部分と、バンクスと同じ、不安感を抱かされたような、不安定な気持ち。
まるで、霧がかかった物語世界に取り残されたような気分でもある。


明快なミステリーや、ハードボイルドを期待すると、失望もあるかもしれない。
だが、この不透明感、不安定感こそが、この小説の味であり、本質でもある。
不透明感、不安定感を味わうために読んでみろ、と薦めるのもヘンだが、
それでもぜひこの不安定な感じを味わって欲しいな、と感じさせる傑作。
さすが(というほど読んでいないが…)イシグロだ、とまた唸ってしまったのだった。

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