藤堂志津子「秋の猫 (集英社文庫)」

mike-cat2005-11-09



30代、40代の独身女性と猫or犬、そして男を描いた短編集。
柴田錬三郎賞受賞作。
ハードカバー刊行時「面白そう。でも、たぶん、犬か猫が死ぬだろうな…」と
散々悩んで、結局買わなかった一冊だ。
でも、文庫化でまた表紙を見たら、やっぱり読みたくなってしまった。
たぶん、泣くんだろうな、なんて思いながら、ページをめくる。


表題作「秋の猫」。
浮気性の恋人との関係を終わらせた36歳の〝私〟は、
長年の念願だった猫を飼うことに踏み切った。
仔猫とともに始まった〝私〟の新生活だが…


男と別れて、猫を飼う。
意地悪いスジからは、好奇の目で見られること請け合いだ。
十数年の願望をかなえた〝私〟も、意地悪な視点で自らに問いかける。
〝男のかわりに猫か?
 いや、いくらそうじゃないといってもある程度年齢のいった女、
 特にひとり暮らしの女が猫もしくは犬を飼いだすと、
 まわりは、そんなふうに揶揄するものだ。
 そういう他人の視線をはねつけられるか?
 それでも猫を飼う度胸はあるか?ひとに言えるか?〟


しかし、当然そんなものは杞憂に終わる。
器量も、愛想も、性格もいいロロとの新生活は〝私が求める「幸せ」そのもの〟だった。
手で(注…当然〝前脚〟とはしない)いわゆる「ねえねえ」をやられて、
もうトロトロになっている様は、同じネコ飼いとして、思わず頬がゆるむ。
だが、なのだ。
あるもうひとつの決断が、「幸せ」そのものに、波紋を投げかける。
ここらへん、いかにもの話なのだが、その様子が、
これまたいかにも藤堂志津子らしい細やかなタッチで描かれると、ひと味違う。
猫との生活で、変わっていく〝私〟の姿がまことにほほ笑ましい一編だ。


「幸運の犬」では、犬のキチ坊をめぐる離婚騒動を描く。
藤堂志津子の描く〝したたかな女〟は、ここでもとても気持ちがいい。
細かい話は省くが、ラストにはいけない爽快感みたいなのもあって、好きな一編だ。


「ドルフィン・ハウス」は、
野心に燃える〝私〟31歳と、
クリスチャン・ラッセンを模したクジラ・イルカ絵が描かれたアパートの主人、
そして、ロシアンブルーのハナちゃんの話。


常にワンランクアップを目指し、職を転々する〝私〟。
しかし、思うようにならない現状に、いらつく描写が秀逸だ。
朝の出がけに、自らが住むアパート区域のゴミ収集所に目をやる。
住宅街と違い、〝自分さえよければいい〟ゴミ捨てが〝私〟の意識にひっかかる。
〝そうしたゴミ収集所の違いを目にするときだけ、私はあせりのような、
 砂を噛んだような感覚を口の中に感じた。
 〜しかし、さしあたってのチャンスなど、これっぽっちもない現実が、
 朝の通勤途中にある私を苛立たせ、わけもなく不機嫌にさせた。〟
人間、ツボというものはつくづく色々なところにあるものだ。
貧相な自分の部屋ではなく、面白みのない職場でもなく、ゴミ収集所なのだ。
ある意味、〝私〟の鬱屈の深さが感じられて、むむむと唸ってしまう。


「病む犬」は、病気がちなロングコートチワワ、マシューと〝私〟の話。
〝こんなはずではなかった。〟で始まるマシューの闘病記は、ただただ涙ぐましい。
雑菌性の腸炎、消化不良、ストレス性の胃腸炎、風邪、外耳炎、結膜炎、肛門嚢炎…
わんこもかわいそうなのは無論なのだが、猫か犬を飼っている人なら、おわかりだろう。
オカネだ。ウン十万の出費。
これが生後10カ月の間に起こっては目も当てられない。
だが、もちろん〝私〟は、文字通り泣きながら、少ない稼ぎをつぎ込む。
決してペットショップに〝商品交換〟に訪れるような手合いではない。
(悪質ペットショップは、別の問題として…)
〝人間として当たり前〟ではあるけど、その〝私〟の涙ぐましさがこころに染みる。


犬の飼い主にとっては、至福の時間の描写がある。
〝一日の勤めをおえて自宅アパートのドアをあけたとき、身をふるわせ、
 目を輝かせて全身全霊で私の帰宅を喜ぶマシューの姿を見ると、
 私は、必要とされる自分を実感できた。〟
僕は、たぶんこの瞬間に耐えられない。
たぶん、置いていった自分に嫌悪感を覚え、たぶん泣き崩れるはずだ。
その真っすぐすぎる愛は、僕には重すぎる。
ある意味、ネコの身勝手な態度の方が、僕には向いている。
首だけ振り向いて「お、帰ってきたな」とばかりに〝ニャ〟。
これが、犬も好きなくせに、犬を飼わない、飼えない僕の理由だ。
(もちろん、バアちゃんネコが3人もいるので物理的にも無理だが)
これまた、話のスジにはあまり関係ないのだが、気になったので書き添えておく。


しかし、それだけでは小説にならないので、〝私〟はある男に出逢うのだ。
そして、したたかな打算が、そこに浮上する。
もちろん、目的はマシューの治療費だったりする。
「幸運の犬」同様、〝したたかさ〟で泣かせる、巧さの光る小説だ。


「公園まで」もこころに染みる一編だ。
4年前、犬の〝種付け〟で縁のあった男との再会。
だが、その4年間に、〝私〟のまわりはすべてが変わってしまっていた−。
悲しみから逃げ続けてきた〝私〟が、再び記憶に向き合ったとき、何かが始まる。
こちらも筋立て自体は、ふつうといえばふつうなのだが、
犬のフウと〝私〟の生活を描く、こまごまとした描写が、胸に迫る。


というわけで、しつこくなるが、いかにも藤堂志津子らしさが光る作品がめじろ押し。
やや読みにくい本が続いていたせいもあって、とても気持ちよく読めたし、
こころに染みる描写に、思わず何度も目を潤ませてしまった。
藤堂志津子は、何冊も続けて読むと食傷気味になったりもするのだが、
やはりたまに読むと、心地よい余韻と、満足感でいっぱいになる。
その中でも今回は、ひときわ満足度の高い一冊だったと思う。