藤堂志津子「秋の猫 (集英社文庫)」
30代、40代の独身女性と猫or犬、そして男を描いた短編集。
柴田錬三郎賞受賞作。
ハードカバー刊行時「面白そう。でも、たぶん、犬か猫が死ぬだろうな…」と
散々悩んで、結局買わなかった一冊だ。
でも、文庫化でまた表紙を見たら、やっぱり読みたくなってしまった。
たぶん、泣くんだろうな、なんて思いながら、ページをめくる。
表題作「秋の猫」。
浮気性の恋人との関係を終わらせた36歳の〝私〟は、
長年の念願だった猫を飼うことに踏み切った。
仔猫とともに始まった〝私〟の新生活だが…
男と別れて、猫を飼う。
意地悪いスジからは、好奇の目で見られること請け合いだ。
十数年の願望をかなえた〝私〟も、意地悪な視点で自らに問いかける。
〝男のかわりに猫か?
いや、いくらそうじゃないといってもある程度年齢のいった女、
特にひとり暮らしの女が猫もしくは犬を飼いだすと、
まわりは、そんなふうに揶揄するものだ。
そういう他人の視線をはねつけられるか?
それでも猫を飼う度胸はあるか?ひとに言えるか?〟
しかし、当然そんなものは杞憂に終わる。
器量も、愛想も、性格もいいロロとの新生活は〝私が求める「幸せ」そのもの〟だった。
手で(注…当然〝前脚〟とはしない)いわゆる「ねえねえ」をやられて、
もうトロトロになっている様は、同じネコ飼いとして、思わず頬がゆるむ。
だが、なのだ。
あるもうひとつの決断が、「幸せ」そのものに、波紋を投げかける。
ここらへん、いかにもの話なのだが、その様子が、
これまたいかにも藤堂志津子らしい細やかなタッチで描かれると、ひと味違う。
猫との生活で、変わっていく〝私〟の姿がまことにほほ笑ましい一編だ。
「幸運の犬」では、犬のキチ坊をめぐる離婚騒動を描く。
藤堂志津子の描く〝したたかな女〟は、ここでもとても気持ちがいい。
細かい話は省くが、ラストにはいけない爽快感みたいなのもあって、好きな一編だ。
「ドルフィン・ハウス」は、
野心に燃える〝私〟31歳と、
クリスチャン・ラッセンを模したクジラ・イルカ絵が描かれたアパートの主人、
そして、ロシアンブルーのハナちゃんの話。
常にワンランクアップを目指し、職を転々する〝私〟。
しかし、思うようにならない現状に、いらつく描写が秀逸だ。
朝の出がけに、自らが住むアパート区域のゴミ収集所に目をやる。
住宅街と違い、〝自分さえよければいい〟ゴミ捨てが〝私〟の意識にひっかかる。
〝そうしたゴミ収集所の違いを目にするときだけ、私はあせりのような、
砂を噛んだような感覚を口の中に感じた。
〜しかし、さしあたってのチャンスなど、これっぽっちもない現実が、
朝の通勤途中にある私を苛立たせ、わけもなく不機嫌にさせた。〟
人間、ツボというものはつくづく色々なところにあるものだ。
貧相な自分の部屋ではなく、面白みのない職場でもなく、ゴミ収集所なのだ。
ある意味、〝私〟の鬱屈の深さが感じられて、むむむと唸ってしまう。
「病む犬」は、病気がちなロングコートチワワ、マシューと〝私〟の話。
〝こんなはずではなかった。〟で始まるマシューの闘病記は、ただただ涙ぐましい。
雑菌性の腸炎、消化不良、ストレス性の胃腸炎、風邪、外耳炎、結膜炎、肛門嚢炎…
わんこもかわいそうなのは無論なのだが、猫か犬を飼っている人なら、おわかりだろう。
オカネだ。ウン十万の出費。
これが生後10カ月の間に起こっては目も当てられない。
だが、もちろん〝私〟は、文字通り泣きながら、少ない稼ぎをつぎ込む。
決してペットショップに〝商品交換〟に訪れるような手合いではない。
(悪質ペットショップは、別の問題として…)
〝人間として当たり前〟ではあるけど、その〝私〟の涙ぐましさがこころに染みる。
犬の飼い主にとっては、至福の時間の描写がある。
〝一日の勤めをおえて自宅アパートのドアをあけたとき、身をふるわせ、
目を輝かせて全身全霊で私の帰宅を喜ぶマシューの姿を見ると、
私は、必要とされる自分を実感できた。〟
僕は、たぶんこの瞬間に耐えられない。
たぶん、置いていった自分に嫌悪感を覚え、たぶん泣き崩れるはずだ。
その真っすぐすぎる愛は、僕には重すぎる。
ある意味、ネコの身勝手な態度の方が、僕には向いている。
首だけ振り向いて「お、帰ってきたな」とばかりに〝ニャ〟。
これが、犬も好きなくせに、犬を飼わない、飼えない僕の理由だ。
(もちろん、バアちゃんネコが3人もいるので物理的にも無理だが)
これまた、話のスジにはあまり関係ないのだが、気になったので書き添えておく。
しかし、それだけでは小説にならないので、〝私〟はある男に出逢うのだ。
そして、したたかな打算が、そこに浮上する。
もちろん、目的はマシューの治療費だったりする。
「幸運の犬」同様、〝したたかさ〟で泣かせる、巧さの光る小説だ。
「公園まで」もこころに染みる一編だ。
4年前、犬の〝種付け〟で縁のあった男との再会。
だが、その4年間に、〝私〟のまわりはすべてが変わってしまっていた−。
悲しみから逃げ続けてきた〝私〟が、再び記憶に向き合ったとき、何かが始まる。
こちらも筋立て自体は、ふつうといえばふつうなのだが、
犬のフウと〝私〟の生活を描く、こまごまとした描写が、胸に迫る。
というわけで、しつこくなるが、いかにも藤堂志津子らしさが光る作品がめじろ押し。
やや読みにくい本が続いていたせいもあって、とても気持ちよく読めたし、
こころに染みる描写に、思わず何度も目を潤ませてしまった。
藤堂志津子は、何冊も続けて読むと食傷気味になったりもするのだが、
やはりたまに読むと、心地よい余韻と、満足感でいっぱいになる。
その中でも今回は、ひときわ満足度の高い一冊だったと思う。