平野啓一郎「顔のない裸体たち」

mike-cat2006-04-12



〝顔をモザイクで隠されていれば、私は裸になれるのか?
 ここには、あなたのことが書かれているのかも知れない。〟
いまいちピンとこないコピーなんだが、そういうことらしい。
出会い系、ハメ撮り、屋外露出、ネット投稿…
そしてある事件を通して描いた、男女の自我の変貌である。
〝若き文豪〟が過激な描写でネット社会の罠を描き、話題沸騰の問題作!
とのことなので、スケベ心半分(以上?)で、ひとまず読んでみる。


没個性的な女性教師、吉田希美子にはもうひとつの顔があった。
性欲処理女《ミッキー》の名で、ネットのハメ撮り掲示板をにぎわす人気者。
モザイクで隠された顔、豊満な胸、淫らに陰部を曝す姿…
出会い系サイトを通じて知り合った片原盈が、無断で投稿していたのだった。
《ミッキー》の存在を通じて、希美子の自意識は、大きく変容していく。
だが、ある事件をきっかけに、隠された顔を曝されることになる−。


作品の冒頭では、屋外でのハメ撮りプレイの場面が描かれる。
淫猥ではあるが、いかにも記号的で安っぽい、ありふれた光景だ。
とか書いてると、お前はいったい? といわれそうだが、
だいたいこういう人たちならこういうプレイだろうな、と普通に想像できる、という意味だ。
こうなると、オトコの方はともかく、地方中学校の一教師がなぜ、ということなる。


希美子は、平凡な家庭に育ち、目立つことなく学校生活を送り、
〝教育実習が楽しかったから〟滋賀県のM市で社会科教師になった。
豊満な胸は目を引くが、片原盈に出会うまでの男性経験は二人。
特別な感情もなく、格別な感慨もなく、ただつき合っただけの関係だった。


一方の盈は、いわゆるキモいオトコだ。
不器量で、頭の回転もいまひとつ、感情のコントロールもうまくできない。
正常な自己分析もできないまま、「世の中バカばかり」とブツブツつぶやくタイプだ。
そんな盈の女性観は
〝女の顔とは、あらゆる嘘の象徴だった。
 本当は、誰もが雌犬のような賤しい欲望の奴隷でいながら、
 いかにも澄ました顔でそれを覆い隠している。
 そのツラが、オレを貶み、拒んでやがる! −そう彼は信じていた。〟
だから、盈はその行為において、必ず女性に服従を強いる。
服従させ、汚し、陵辱することによってしか、快感を得られない。
ちなみに、大好きなアダルトビデオのジャンルは、盗撮である。


こんなふたりの関係をただつらつらと語られても、正直あまり興味はない。
よっぽど安っぽいポルノ小説を読んだ方がましなのだが、
そこはそれ、文豪が描く〝ネット社会の罠〟なので、
出会い系や、投稿サイトなどネットの匿名性がもたらす、
人間関係がきっちりと描かれるのだが、
やはり興味深いのは裏の顔《ミッキー》の存在が、希美子にもたらす変化だろう。


誰にも気を止められない、没個性な存在だった希美子は、
服従を強いる一方で、執拗なまでに性器を貪る盈の存在が新鮮だった。
〝その行為が何であれ、彼女は、それほど長時間に亘って、
 一人の人間の関心が自分に於いて持続し、自分の肉体が、
 その相手の手によって興味の対象として扱われ続けるという経験を
 これまで一度もしたことがなかった。
 幼時に経験した両親との触れ合いでさえ、もっとずっと淡泊なものではなかったか?〟
それは、〝何か麻薬のように中枢から浸透してゆく愉悦だった〟とある。


そしてその性的な満足は、彼女の世間の見方を一変させる。
それも〝恐ろしくはしたない満足〟をもって、である。
〝彼女は胸を張って街中を歩いた。美しい女を見かけても、
 以前のように劣等感を覚えることがなくなった。
 自分は、ここにいる誰よりも、淫らなことを経験している。
 しかも自分は、そうした淫らさから最も遠いところで、きちんとした生活をしている。
 殆どの女は、人生のそのどちらか一方の面しか知らないだろう。〟
盈もまったく同じなのだが、自我と外へ向けた自意識が未分化なままの、
幼い人間がはまりがちな思い込みといっていいだろう。
憐れというのでもない、惨めというのでもない、どことなく滑稽さを感じさせる。


小説で語られる事件に関しては、
盈の幼稚さばかりが目立ち、さほど特別な感慨も覚えない。
そしてその結末も、東電OL殺人事件をねっちょりと描いた、
桐野夏生グロテスク」のような、業の深さや人間の性、みたいなものはない。
ただひたすら、薄い人たちのあさはかな行動に過ぎない。
だけど、その薄っぺらさがむしろ、ある意味でのリアルさを感じさせる小説だ。
この小説の希美子や盈同様の心象風景を持つ人が、世間にけっこういるのだろうな…
そんな薄ら寒い気持ちを抱かせる、ちょっとイヤな、でも気になる小説だった。

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