ダフネ・デュ・モーリア「レイチェル (創元推理文庫)」
〝もうひとつの「レベッカ」として世評高い傑作〟
先日、新訳版「レベッカ」にすっかりはまってしまった。
「レベッカ」があれだけ面白かった以上、
もうひとつの、と言われてしまったら、もう見逃せない。
こちらも2004年刊行の新訳、ということで迷わず手にする。
両親を早くに亡くした〝わたし〟フィリップにとって、
従兄のアンブローズは兄であり、父でもある、かけがえのない存在だった。
領地でもある英国コーンウォールを離れ、
療養のためフィレンツェへと渡ったアンブローズから、届いた突然の報せ。
それは、長らく独身を貫いてきた従兄の、結婚の報告だった。
しかし、アンブローズは体調を崩し、旅先で帰らぬ人となってしまう。
死の直前に送られてきた手紙には、妻への疑惑がしたためられていた。
そんなレイチェルに、敵意を燃やしていたフィリップだったが、
ひと目顔を合わせたとき、その憎しみが、思慕へと変わっていった―
帰らぬ人への想いと恋情との板挟みが描かれる一方、
それは現実なのか、妄想なのか、と思い悩む、という文脈では、
まさしく「レベッカ」と同じく、複雑な感情の揺れを描いた作品だと言えるだろう。
ただ、大きく違うのは、「レベッカ」の?わたし?が、罪なき被害者だったのに対し、
今回の「レイチェル」のフィリップは、もしろ愚かさばかりが際立つ自業自得系。
「レベッカ」の凍りつくような緊張感に対し、
こちらは「あ〜あ、何やってんだか…」的な、トホホ感がある意味特徴だ。
このレイチェルが、いわゆるファム・ファタールである。
教父で後見人のニック・ケンダルの言葉だ。
「世の中にはな、フィリップ、
本人には何の咎もないのに、災厄をもたらす女というのもいるんだよ。
そういう女たちは、触れたものをことごとく不幸にしてしまうんだ」
ましてや、このレイチェルは明らかに、咎がない女ではない雰囲気。
妄想か、それとも…のこころの揺れはないか、と思いきや、なのである。
しかし、こんな悪女にフィリップは、ベタなほどコロリといかれる。
「何であんた、そんな簡単に…」。思わず突っ込みたくなる。
だが、オトコという生き物の、哀しい愚かさはヘンにリアルだ。
アンブローズ、フィリップはどちらも夢想家、つまり一番のカモである。
〝夢想家がみなそうであるように、現実が見えていなかった。
ふたりは人嫌いでありながら、愛に焦がれていた。
けれども内気さゆえに、内なる情熱は眠ったままだった。
何かが心に触れるまでは。
そしてひとたびそうなると、空がさっと広がり、わたしたちはどちらも、
世界中のすべての富が手中にあるかのように感じた。〟
これではもう、抗いようがない。
フィリップがどうなってしまうか、にハラハラするよりむしろ、
約束された結末へ、フィリップが堕ちていく様を楽しむだけなのである。
しかし、そんなダメっぷりがどこか、読む者のこころをとらえて離さない。
レイチェルの内面が描かれないだけに、
ファム・ファタールぶり、ではなく、まさしくフィリップの転落である。
そういう意味では、もうひとつの「レベッカ」という表現は、
ちょっと微妙ではあるのだが、その語りの見事さにはやはり相通じるものがある。
またも「さすが」と唸りつつ、ひたすら読みふけった一冊なのだった。