辻原登「遊動亭円木 (文春文庫)」

mike-cat2006-07-01



〝生死、禍福、怖さと可笑しみが扉一枚、隣り合わせ。〟
枯葉の中の青い炎」の作者による、
谷崎潤一郎賞受賞の連作短編集だ。
長らく積ん読になっていたのだが、ついに読んでみる。


噺家の遊動亭円木は、真打ちを前に視力を失い、
寄席をすっぽかした挙げ句に師匠から引導を渡された。
いまは妹と同じマンションに身を寄せ、世話を受けながら暮らす毎日だ。
かつてのごひいき筋に恋人、そして不思議な因縁…
一筋縄ではいかない人たちとの、さまざまな出来事で円木の周囲は常ににぎわう。
落語そのままの、おかしくて切ない、人情ものの世界が、
あの世とこの世、現実と空想、時間と空間が混ざり合う、不思議な物語−


円木というのがまず、なかなかの人物というか、興味深い人物だ。
その円木の人となりを説明するくだりも、まるまる落語そのものだ。
〝真打ちもそのうちというところで、不養生がたたり、
 遺伝体質の糖尿病が悪化して、白内障が進み、すっかり水晶体が濁ってしまった。
 もともと克己とか節制なんぞは大きらいなたちときているからもういけない。〟
〝両目があおみどろの池に沈み、
寄席を何度もすっぽかした挙げ句、引導を渡されたという次第〟


そんな円木とどこかかぶる部分があるのが、
廓噺にかけては神技といわれた初代小せん。
〝吉原通いの度が過ぎて、二十七歳で腰が抜け、
 三十歳で失明、三十七歳で遊女あがりの女房にみとられながら死んだが、
 高座へ上るのに下足番二人に板の上に載せられて持ってこられた。〟
という、そのまんまいわくつきの人物だ。
もちろん、円木自身にすら「あそこまでは…」という思いもあるのだが、
視力を失い、不可思議な世界を彷徨う円木がたどり着くのは、
小せんの域をも思わせる、一種独特の悟りの境地ともいっていいだろう。


冒頭の表題作「游動亭円木」から、読者はいきなりその世界に引きずり込まれる。
きっかけは、昔のひいき筋〝明楽のだんな〟から送られてきた、大相撲の招待券。
一度は落ちぶれたものの、再び立ち上がっただんなが、
〝升席でやぐら太鼓の鳴りはじめる朝から結びまで、
 芸者をそばにはべらせてじっくりみてみてえ〟という、
かつての円木の夢をかなえるべく招待券を送ってみたが、
円木の視力はすでにほぼなし。
近所の知り合いを誘ってみたが、どいつもこいつもワケありな連中ばかり。
真正面からテレビに映る升席を怖がり、円木ひとりを残してどこかへいってしまうのだ。


満員の場内、4人分の升席にぽつんと端座する円木。
だが、ここからが円木の真骨頂となる。
〝こんなふうに、あおみどろの水のむこうに、
 何かがあかるくうごいている土俵にむかって端座して、
 なにもかも耳でききわけようと身内にわきあがるざわめきをおさえこんでいる自分は、
 およそ噺家の対極にいるんだ、と円木はおもった。
 噺家はひたすらしゃべる。噺家はきくんじゃない、ひたすらにしゃべるんだ。
 いまの円木はひたすら耳をかたむけるのだ。
 「おい、おれはひと皮むけたようだぜ」
 だれかが脇にいるみたいにふりむいて、
 自分の肩先につぶやき、ぶきみな笑いをうかべた。〟


そんな円木と、いわゆるワケありの人々との交流は、
絶妙の切なさと滑稽さをたたえ、読む者のこころに染み込んでくる。
どこか人を喰った展開でありながら、目の奥にツンとくる、その味わいがたまらない。
落語の知識があれば、より楽しめるのだろうが、
さほど詳しくなくてもそれはそれで楽しい。
なるほど、辻原登らしい傑作といっていい。
長らく積ん読にしてしまい、惜しいことをしたもんだ、といまさらながら反省したのだった。


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