辻原登「枯葉の中の青い炎」

mike-cat2005-05-25



表題作「枯葉の中の青い炎」が、ことしの川端康成文学賞受賞。
川端康成文学賞、といえば、
絲山秋子袋小路の男」、
堀江敏幸「スタンス・ドット」(「 雪沼とその周辺」収録)、
車谷長吉武蔵丸 (新潮文庫)」と、
ここ数年、僕のストライクゾーンをドーンと突いてくる作品を送り出している賞だ。
じゃ、読まなきゃな、と「何とか賞受賞」に弱い僕は、すぐに手を出す。
で、辻原登は「遊動亭円木 (文春文庫)」がけっこう長らくの積ん読本。
読みたいな、と思う時には必ず〝もっと読みたい本〟が出てくる、
というまことに数奇な運命をたどっている。
とかゴチャゴチャ言ってないで読めばいいのだが。


で、本はちょっとつながりがあったり、なかったりの6編による短編集。
最初の2編「ちょっと歪んだわたしのブローチ」と「水いらず」は、
どちらも、ラピスラズリのブローチをモチーフにした、奇妙な愛情を描いた作品だ。
「ちょっと歪んだ〜」は、
結婚のために故郷に帰る若い愛人と、最後の1か月を過ごすため、
妻のもとを一時期離れる夫と、奇妙な別居を受け容れたその妻の話。
自分の理想通りに生きることができる絵の中の世界と、
思い通りにならない現実の世界を行き来する男のメルヘンが、寓話的に挿入される。
E・ブロッホという作家による「未知への痕跡」からの引用だという。


もちろん、妻、みずゑの了解を得て、愛人のもとに身を寄せる、
二つの世界を生きる男に絡めての話なんだが、主役はこの男ではない。
ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻」にも相通じる、奇妙な味わいがある一編だ。
もちろん、ナゾの失踪と突然の帰宅が描かれる
ウェイクフィールドの妻」と状況はかなり違うが、
不条理な状況で淡々と行動する、みずゑが醸し出す、
一種の〝狂気〟みたいなのが、強烈だ。
静謐の中で、時折妖しい光を放つ、その迫力。
嫉妬、という言葉で片付けるには、あまりにも複雑な、その感情が描かれている。
とても怖いお話だ。
というか、一カ月限定で、妻の了解を経て、愛人と過ごすな。まったくもお…


「水いらず」は、奇妙な性欲を描いた作品だ。
厳冬の雪山ロッジで、冬ごもりをする管理人、秋山の話。
冬ごもりに備える男のもとを、自殺したもと妻の、妹夫婦が訪れる。
ふたりが抱える、ある「秘密」。
そして、妹、芙美がある状況で発する、強烈なフェロモン。
閉ざされかけた雪山ロッジで、事件が起こる。


秋山の思い出話が、その官能的な〝におい〟を説明する。
その〝におい〟を嗅いだのは、噴水の近くだった。
「最初は、噴水の匂いかと思った。噴水って、独特の匂いがするものね。
 だけど、四、五メートルほどの距離に近づいたとき、はっきりした。
 それは、あなたのうなじ、ちょうど髪の生え際あたりから匂い立っていたのだ。
 はじめて嗅ぐ匂い、あんな狂おしい思いは生まれて初めてだった。
 えもいわれぬ…、私はもう完全に理性も何も失ったのさ。
 トリスタンとイズールの媚薬みたいなものさ。」


匂いって、とてもエロティックだ。
香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)」の殺人者ぐらいになると、
完全に一線を越えてしまっていて、匂いこそがすべてになるのだが、
そのレベルじゃなくても、匂いは、官能の大きな一要素を構成している。
まあ、人間だって動物だから当たり前なんだが、匂いは大事だ。
容姿だとかのように、
頭の中で、想像の世界で、そして社会的に、後天的に創り上げられた官能と違い、
匂いは、より本能のレベルに訴えかけてくるだけに、狂気を誘う、その説得力は絶大だ。
嗅いでみたい、と書いてしまうと変態くさいが、それだけの興味を覚えさせてくれる。


「日付のある物語」にも、
王子の名を騙ったひとりの与太者を描いた、ロシアの昔話が挿入される。
しかし、主人公は昭和の時代の銀行強盗。
カネを目当てに銀行に押し入った男が、
人質に対する絶対的な支配の快楽に浸り、
ある時、ただの男に戻る、その様子を描いた作品だ。
これも、描写はなかなか際どいが、味わい深い印象を残す。


「ザーサイの甕」は、
遊動亭円木 (文春文庫)」に出てくる、盲目の噺家も登場する、金魚の話。
紫禁城の中で、独特の品種改良を加えられた金魚がたどる不思議な旅だ。
その金魚、珍珠蛤蟆頭翻鰓(何か、ランチュウの類らしい)が起こした、奇妙な天変地異。
この短編集の中でも、格別ヘンな話だが、印象の方も強烈だ。


「野球王」は、文字通り野球の話だ。
自伝的な短編らしいが、こども時代にいた「野球王」といわれる大柄な少年の思い出。
いじめっ子として畏怖された存在だった「野球王」の実像に迫る。
微妙な感じの一編だが、これはこれでなかなか読ませる。とても不思議。


で、いよいよ表題作。「枯葉の中の青い炎」。
戦前から戦後にかけて活躍したロシア出身の名投手、
スタルヒンにまつわる虚々実々の物語だ。
何しろ、1955年に達成した通算300勝目は、呪われていた、という話。
物語の主人公は、ミクロネシアのトラック諸島出身のハーフ、ススム・アイザワだ。
力が衰え、300勝を目前にスタルヒンの困窮を見かねて、
「願いはかなうけど、災いが降りかかる」おまじないをかけるのだ。
というか、本人の了解もなしに、そんなおまじないかけるなよ、という部分は、とりあえず抜き。
日本プロ野球史で屈指の名投手、スタルヒンと、
いま話題の楽天すら凌駕する、球史に残る弱小球団、トンボ・ユニオンズという、
舞台装置だけでも、もうつかみは完璧といえるだろう。
奇譚だらけのこの短編集の締めくくりに、まさにふさわしい。


ちなみに、1955年のトンボ・ユニオンズに南洋中出身の「相沢進」の名前がある。
この実在の人物を、勝手に〝まじない師〟に仕立ててしまうのも、かなりすごい。
というか、大丈夫? と心配になる。
小説中で、300勝が達成されるまでのスリルとは、
違ったスリルも勝手に感じてみたりもする。
小説そのものは、野球に興味がなくてもまずまず楽しめるとは思うが、
〝古きよきプロ野球〟の雰囲気をにおわせる小説だけに、
野球好きにはさらにたまらない作品だと思う。
(もちろん、実際にその時代を知る人は少ないだろうが…)
短編集の中でベスト、とは思わないが、これもまた絶妙の一編だ。
6編を通じての満足度もかなり高い。また、気になる作家ができてしまった。
遊動亭円木 (文春文庫)」もさっそく読まなければ…
と、またもいつになるやら分からない誓いを立てるのだった。