今邑彩「いつもの朝に」

mike-cat2006-05-25



本の雑誌」など、各書評などで評判の1冊。
読んだことがないどころか、知らなかった(失礼…)作家だが、
強烈に興味を覚え、手に取ってみることにする。
〝『エデンの東』の感動を現代に甦らせる、驚くべき傑作。〟
そして、背表紙のオビがこう。
〝顔のない少年の絵、いびつな兄弟、30年前の凄惨な事件…。
 すべてを覆しうる、出生の秘密。本当のユダは誰だ!?〟


実は「エデンの東」を観ていない(古典に弱い…)のだが、
キリスト教史において、人類初の殺人を犯した、
カインとアベルの物語であることくらいは、知っている。
いびつな兄弟をめぐる、愛憎のドラマ、ということらしい。
ユダといえば、最近「実は裏切り者ではなかった」
との説を唱えた本が、評判になっていたっけ…
ダ・ヴィンチ・コード」はあくまで創作だが、こちらはどうなんだろうか?


兄の桐人は中学3年生。
学業優秀、スポーツ万能、甘いルックスに加え、
リーダーとしての資質も兼ね備えた、学校一の人気者。
一つ違いの弟、優太。
勉強もスポーツも不得意なら、チビでニキビだらけの〝兄弟の残り滓〟。
名前をもじって、キリストとユダに例えられる二人が見つけた、ある手紙。
それは、ふたりの人生を揺るがす、穢れた秘密への扉だった。
二度と訪れない「いつもの朝」、顔のない少年が描かれた母の絵、
哀しき罪に彩られた、もうひとつのカインとアベルの物語−。


サスペンス、ミステリーとして仕立てられたその仕掛けもさることながら、
この小説の味わいはやはり、そのカインとアベルの関係だ。
欠点すら見つからない兄と、欠点しか見つからない弟。
弟から見れば、兄は嫉妬の対象であり、憧憬の対象であり、僻みの対象でもある。
そんな〝出来の悪い〟弟を、いやらしいまでに完璧な心遣いで思いやる兄。
まるで黒と白が反転したかのような兄弟の関係が、
思春期ならではの極端な発想のもとで、
揺るぎなかったはずの「兄>弟」の図式すらも、大きく揺れ動いていく。
このドラマに部分が、とにかく読ませるのである。


ドラマの大きなカギともなる、母の沙羅の話も興味深い。
桐人と比べ、僕のどこがいい? と問いかける優太に対し、
詩人の言葉を引用し、「ミンナ違ッテ、ミンナイイ」と答えた沙羅が、こう続ける。
「桐人って、あの真っ白なテーブルクロスに似てるのよ」
小さな汚れすら浮き立たせる、白いテーブルクロス。
汚したところで、責められないとわかっていても、緊張を強いられ、怖さを感じる。
桐人はあまりに〝完璧〟であるがゆえに、
どこか〝欠如〟している、という矛盾を抱えているのだ。


そんな桐人に比べ、優太はいかにも、な普通の少年だ。
完璧な兄さえいなければ、比較され、揶揄されることもないはずの、普通の少年。
だが、そんな優太だから、人はこころを許し、正直に自分をさらけ出せる。
若くして逝った父は、線路に転落した子供を助け、電車に轢かれた。
きちんと注意しても、危険な遊びをやめず、勝手に線路に落ちた他人の子供を助けて…
そんな父を英雄視する桐人に対し、優太は「無駄死にだ」と言い放つ。
どちらが正しいのか、という判断基準は、この際当てはめようがない。
だが、桐人の視線はどこか第3者的で、どこか無理がある。
「無駄死に」だ、なんて思いたくないための、思考の転換に過ぎない。
そう考えると、思った通りを、正直そのものに口にできる優太の方が、ある意味幸せなのだ。


こんな具合に、さまざまな場面で兄弟の気持ちの葛藤が描かれていく。
もちろん小説である以上、その場面場面は極端なケースも多いし、
あとがきにある、「遺伝と環境」に関する差別的とも受け取られかねない〝表現〟も含め、
意地の悪い視点から見ていけば、いくらでも欠点は見つかるだろう。


だが、それでもこの小説は、本当によく書けている小説、だと思う。
二段組み400ページというボリュームも、まったく重く感じさせないまま、
一気読みさせられてしまうくらいの、パワーにもあふれた作品に仕上がっている。
今邑彩ファンの方にしてみればいまさら…なのだろうが、
また、読んでみたい作家に出逢えたな、と喜びを胸に本を閉じた。

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