村上春樹「中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)」

mike-cat2006-01-23



お恥ずかしながらの、〝初〟村上春樹
名前を初めて意識したときにはベストセラー作家だったし、
その頃は、ベストセラーを読むなんて恥ずかしいと思っていた。
長らく海外作家しか読まない時期を過ごし、
国内作家の作品も再び読むようになった頃には、
どこから手をつけてよいやら、と思ううちに、またも遠ざかるハメに。
そうなってくると、読み始めるには勢いも必要なわけで、
長らくきっかけを探していたという感じだった。


で、きっかけは古川日出男二〇〇二年のスロウ・ボート (文春文庫 (ふ25-1))」なわけだ。
中国行きのスロウ・ボートRMX」を読んだのだから、
オリジナル版にも、当然手を伸ばすべきだろう、ということで。
以上、長い長い言い訳終わり。って、何で言い訳してるんだか…


1980年春から、1982年夏にかけて書かれたという、。
表題作「中国行きのスロウ・ボート」を含む7つの短編。
比較的バラエティに富んだ構成となっている印象だ。
淡泊さと濃厚さが、微妙なバランスがとても心地いい。
ふわふわとした浮遊感の中に突如、
猥雑さや鋭角な何かがまぎれ込むような、かすかな混沌が感じられる。
なるほど、多くの人を魅了して止まない部分が、伝わってくる。


まずは表題作「中国行きのスロウ・ボート」だ。
先に読んだ「二〇〇二年のスロウ・ボート」の主人公は、
3人の女性との邂逅、そして別離を通じ〝ここ(東京)ではないどこか〟を目指す。
それが、古川日出男流の解釈であり、リミックスだった。
こちらのオリジナルでは、3人の中国人との邂逅が描かれる。
模擬テスト会場で出会った、中国人小学校の教師、
アルバイト先で出逢った、中国籍の少女、
そして喫茶店で偶然であった、高校時代の知り合い…


日本での異邦人たる〝3人の中国人〟は、
それぞれが強烈でありながら、どこかおぼろげな印象を残す。
誇りについて唐突に語り出す教師、
自分でも説明できない違和感に涙する少女、
同胞のよしみで百科事典を売り歩く男。
それが何を表すのか、何を暗示しているのか、正直よくわからない。
(もちろん、それは僕の読解力の問題なのだが)
だが、それぞれが深くこころの中に、ざらざらとした澱を残す。


〝僕〟とのデートの後、逆回りの山手線に乗せられた少女が、
涙ながらに語る〝違和感〟が、中でもやはり、とても強い印象を残す。
〝「いいのよ。そもそもここは私の居るべき場所じゃないのよ」
 彼女の言う場所がこの日本という国を指すのか、
 それとも暗黒の宇宙をまわりつづけるこの岩塊を指すのか、僕にはわからなかった。〟
そういわれると、僕にも当然わからないのだが、
その違和感は場所だけに限定されたものではないのだろうな、とは思う。
恐らくそれは〝私は私でいいのか〟という根源からの違和感でもあるのだろう。


そして物語のラストでは、
〝僕〟も東京という街に対し、リアリティーを感じることができなくなる。
〝僕たちは何処にも行けるし、何処にも行けない〟
〝どこにも出口などない〟
散りばめられた言葉の数々が、するどくこころに突き刺さる。
究極の答えが見つかることは決してない。
〝中国〟という言葉で示される何かに向かって、さまよい続けるのみだ。
だが、〝僕〟はさまよい続けることへの、爽快なまでの覚悟を手にしている。
違和感をより明確に感じつつ、なおかつ受容していく。
それは、モラトリアムの時期を脱し、リアルな人生に踏み出す分岐点でもあるのだろうか。
その旅立ちに際し、残す言葉は〝友よ、中国はあまりにも遠い〟
重く、切ないが、そこにこそ人生の深さはあるのかも知れない。
そんな、グッとこころに迫る余韻を残すラストだったと思う。


ほかの6編で好みの作品といえば「カンガルー通信」だろうか。
デパートの商品管理課に勤める〝僕〟が、
苦情を申し立てた顧客へ送り返す、カセットテープによる返信。
何でカンガルーなのか、という説明がやたらといい。
〝つまりこういうことです。
 カンガルーとあなたとのあいだには36もの微妙な行程があって、
 それをしかるべき順序でひとつひとつ追っているうちに、
 僕はあなたのところに行きついたと、それだけのことなんです〟
全然わけわからない。
でも、読んでいるだけで引き込まれるような不条理な魅力に溢れている。
そして、読み進める中で、とても心地のいい物語世界に浸ることができる。


あと気になったのは「貧乏な叔母さんの話」だろうか。
〝見る人のそれぞれの心象に従って
 それぞれに形作られる一種のエーテルの如きもの〟という設定は決して珍しくない。
だが、村上春樹が書くと、こういうお話になる、という独特のムードがたまらない。
思わず、くせになりそうな一編でもある。


というわけで、ほか4編も含め、とても贅沢な読書をしたな、という短編集。
こんなことなら、もっと早く読んでおけばよかった、という想いと、
自分にとっていいタイミングで読めたのかも、という想いが相半ばする。
そして、次は何を読もうかな、とワクワクする自分もいたりする。
やっぱりこれだろうな、ということで購入したのは
愛蔵版?の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。
読むのにやや体力が必要そうなので、近々万全を期して読み始めようかな、と。
何はともあれ、無事に村上春樹デビューを飾れたことに安堵したのだった。