古川日出男「ルート350」

mike-cat2006-05-21



〝僕の前に路<ルート>はある!〟
−小説の地平を切りひ拓く、著者初の衝撃短編集−
〝小説の未来を、世界の未来をここに読め!〟
ということで、古川日出男らしい大胆な文体で描かれた短編集。
〝らしい〟とか書いてるが、古川日出男は1冊1冊読むのに、
けっこう覚悟がいるので、まだ4冊目だったりするのだが…


8編からなる短編たちは、どれもがとても刺激的だ。
短編というと、読み始めてすぐにその世界にとけ込めないことも多い。
だが、古川日出男による短編は、どれも唐突でありながら、
そのまま自然にその世界へと誘われ、そのままその世界に浸りきれる。


たとえば、冒頭の「お前のことは忘れていないよバッハ」だ。
〝彼女がバッハの冒険について語る。
 「絶対に忘れちゃならないのは、これがぜんぶ作り話だってこと。
 いい? 最初にこのことだけは確認しておかないと。
 いちいちリアルだとかりあるじゃないとか追及しないでほしいんだ。
 作り話ってゆうか、現実のレプリカって思ってくれてもいいけど」〟
こうやっていきなり、煙に巻かれる(死語?)のだが、
それと同時に、この不思議な感覚に魅せられ、いきなり入り込んでしまう。
安い言葉でいえば、〝ツカミはOK〟といったところだろうか。ホントに安いが。


そして、この手乗りハムスターのバッハの冒険なのだ。
これがまたギュッとこころを摑まれ、グッときてしまうのだ。
とんでもない夫婦交換と、ハムスターの冒険譚、そして少女たち。
不思議な組み合わせが、深い味わいを醸し出し、独特の余韻を残す。


「カノン」もシビれる作品だ。
〝一九八三年、その王国は東京湾に生まれる〟
全部インチキだらけの世界に、A級のインチキ王国が出現する。
AMとFMの真ん中でしか受信できない、ほんものの世界からの送信、
それはエンドレスの輪唱、追復曲の形を採った〝カノン〟が奏でられる時、
インチキとほんものの境界が、わずかに交差する。それは別のレプリカの世界での出来事。
この、ある種の説明不能、説明不要な物語は、とても〝伝わってくる〟物語でもある。


「飲み物はいるかい」も、しみじみ〝伝わってくる〟物語だ。
三十五歳の〝僕〟の回想。
〝旅について。
 すこし前に大学生の姪と話していて、ひっかかった事柄がある。
 大したことではないし、そもそも、その事柄にしても単なる会話の断片だ。
 引用する。〟
ここから微妙な道草を喰って(また、死語だ)から始まる物語は、
旅嫌いの〝僕〟の6年前の旅の記憶をたどる。
神が楽しい坂をめぐる旅、死んだふりの少女とめぐる、橋の制覇…
唐突に終わる旅は、読む者をしばし呆然とさせ、そして考えさせる。
だが、少し経つと、その自然な感覚に、思わずうっとりとしてしまうのだ。


「一九九一年、埋め立て地がお台場になる前」も、すごい作品だ。
1991年、2月の最後の日と、3月の最初の日の間の、エンドレスな一日。
終わることのないレイヴ・パーティー、凶暴でありながら、静謐な狂気…
〝聞こえるか? おれの声が。

 おれたちはその日にいる、エンドレスのうるう日の内側に〟
永遠に孵ることのない卵の中に閉じ込められた、〝おれ〟たちの物語だ。


いきなり〝三日目〟から幕を開ける「メロウ」は、
知的早熟児、といわれる〝僕〟たちの世界が、美しく、熱く描かれる。
「僕たちはもう熟してる果物なんだな。完熟してる。だから、メロウだ。
 そして全部の五感が芳潤で、きれいで、メロウなんだ。上等だろ?」
いまいる世界とは、何かが違うパラレルワールドのような物語世界。
いつ、どこで、何が起こっているのか。
いわゆる5W1Hのほとんどが明かされないまま、〝僕〟たちの物語は疾走する。
〝僕〟たちのスピードに振り回されながらも、魅せられていくのがまた楽しい。


文学的に、きちんと理解できたかどうか、を問われたら、正直自信はない。
だが、国語のテストのような解答が導き出せなくても、
感じ取るもの、読み取れるもの、そして伝わってくるものは計り知れない。
独特の文体も、読みにくさはまったくない。むしろ、それ故に心地いい。


とてもパワフルで、楽しくて、そして贅沢な短編集だ。
違う気分で読めば、違うものが読み取れる、
万華鏡みたいな魅力もあるような気がしてならない、不思議な一冊だ。
またいつか、気が向いたら読み直したい。
その時、何を感じるのか。その時が楽しみでならない。

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