絲山秋子「スモールトーク」
クルマの月刊誌「NAVI」に連載された、クルマをモチーフにした連作集。
デビュー作「イッツ・オンリー・トーク」にも通じるタイトル。
そういえば、あの作品でもランチア・イプシロンとか出てたっけなあ、
というか、〝Small Talk〟って、スクリッティ・ポリッティであったなあ、
と、いろいろ考えながら、著者初という、連載小説を手に取る。
で、ちなみにタイトルはそのまんま、
スクリッティ・ポリッティの傑作アルバム「キューピッド&サイケ85」の曲からだった。
相変わらず、シビれる選曲をしてくれる。
スクリッティ・ポリッティって、僕の中学・高校時代にもっとも衝撃を受けたバンドだ。
(といっても、途中からグリーン・ガートサイドひとりの〝バンド〟になってたようだが)
それをいま、このタイミングで出されると、もう、僕的にはぐにゃぐにゃだ。
つくづく、この絲山秋子という作家に対して、共鳴するものを感じる。
(あくまで勝手に、だが)
もっとも、クルマの方は、自身フィアット乗りという著者の哲学も反映してか、
「乗ってはみたいけど、とてもとても手が出ない」クルマばかり。
もっとも、高いだけのクルマじゃない。
価格ではない、クルマ文化の粋を感じさせるクルマが、次々と登場する。
日本車のように、〝必要として〟のクルマではなく(それはそれで価値あるが)、
必要を越えたレベルで、〝クルマそのもの〟に価値を見出したクルマたちだ。
ま、僕は、単なるオペル乗りだった(だって、オカネがないんだもの…)だったもんで、
どちらにしても、ただただ、よだれ垂らしながら読んでいるしかないのだが…
主人公は、40を前にした絵描きのゆうこ。
アルファロメオ145に乗る、無類のクルマ好きだ。
昔つき合っていたオトコは、音楽プロデューサーの本城。カマキリ顔、だそうだ。
この本城が、ゆうこの気を引くべく、さまざまなクルマで、ゆうこのもとを訪れる。
その6台のクルマと、ゆうこと本城の微妙な関係を描いた、連作だ。
さすが、ゆうこはこだわりのクルマ乗りとあって、
たとえあこがれのクルマたちであっても、容赦なく、いい感じでバッサリ斬っていく。
そこには、ある種の信念があるから、僕のようなクルマ素人にも心地いいのだ。
たとえば、最初に登場するのはTVRタスカン。
これがいきなり、キテるクルマなのだが、当然ゆうこもシビれてしまう。
〝私の脳に平和にたゆっていた顔ニューロンが大錯乱するような気〟がするほど。
このクルマを説明する、本城の言い草が笑える。
「社会」と「世界」の区分けを尋ねる問答から、こう展開する。
「まあ社会の寄せ集めが世界なんだけどさ、
世界なんてもんは俺に言わせりゃスッカスカなのよ。
でね、社会には刺激なんかないんだ。刺激は世界の方にあるんだよ。
つまりTVRはさ、社会に属してない車なんだ。世界の方にある」
「つまりヒエラルキーの外ってこと?」
「そ、俺そう言いたかったのよ」
「じゃ、社会に属してる車ってなによ」
「簡単だよ。七百万以下の車。スポーツカーでもみんなそう」
TVRが社会に属していない車、という感覚が、とても伝わってくるのだが、
その後、区分けについては〝七百万円〟を境界線にする。
このいかにも成金的発想というか、
社会の範囲内の定義づけで、世界との区分けしてしまうあたりが、
このオトコの、とっても軽薄なとこで、とても笑える。
別に、バカにするというわけでなく、いい感じに軽薄、という意味で。
お次に登場するのはジャガーXJ8。
ゆうこ的には「年食ったら銀髪のやなばばあになって、颯爽と乗りたかった」クルマだ。
すごい褒め言葉というか、何というか。
実際、乗ってみるとその〝どの状況でも何の不足もない〟特性が、
ゆうこの胸をつかえさせる。それは、似合わないがための、さびしさだったりする。
〝この車に乗れるほど、私は自分の人生に満足していないのだ。
まだ全然生き足りていない。何かをするということじゃなくて、
したことに対して何かが返ってくるという経験が足りない。
お金だけじゃない。私の知らない何かを十分に受け止めてきた人たちが乗る車なのだ。
〜さびしさは冷たくて美味しい水のように身体にしみわたった〟
この、何ともいえない深い表現。
クルマを交通手段以上の、文化的存在として見るヒトにだけ、できる表現だ。
これがエンジンとシャシーをメルセデスが担当した、
クライスラー・クロスファイアになると、ゆうこは、その「正しさ」が気に食わない。
〝私に、ベンツは似合わない。多分一生似合わない。
車は「ヨイオトコ」でない方がいい。たとえ「ダメオトコ」であっても
魅力的なら苦労のしがいがあるというものだ〟
そのまんま、人生観という感じ。
いや、倉田真由実風にいうなら〝ダメンズ・ウォーカー〟っぽさがにじみ出てて、まことに香ばしい。
サーブ9-3カブリオレだって、容赦ない。
憧れっぽいクルマの、代表格みたいな感じだけど、
ゆうこはその甘くて、どこか緩い乗り心地に、違和感を覚える。
〝充実はしていないけれど不満につながる程のことはない。
女を怒らせない男。ただしイナカモノ、ちょっとだけ鈍い〟
ボンド・カーのアストンマーチン・ヴァンキッシュですら、
手で操作するセミ・オートマ特有の変速ショックに、ゆうこは納得がいかない。
英国のボタン信仰と引っかけ、こう評してみせる。
「わかった。エレベーターだ。
変速ショックのあるエレベーター。昔のやつ。ボタン信仰だし」
本城の落ち込みようが、また笑える。
「あああ、アストンでもそんなに言うかよ。おまえってやつは」
こう挙げていくと、ゆうこが単なるわがままちゃん、と感じるかも知れないが、
こうしたクルマたちまでが、
交通手段としてのクルマに成り下がりつつある現状に、失意を覚えていたりもするのだ。
だから、以前乗りたかったはずのアルファロメオ・アルファGT、
そのハンドルを握った時すら、特別な感慨を覚えることは、ない。
〝機械とのストイックな関係は終わってしまっていたのだった〟
〝新しい車に搭載される機能はこの喪失感に何の救いも与えない。
神経を逆なでするようなばかばかしい小細工はこれからも続くだろう。〟
そして、携帯電話になぞらえ、こう言い放つ。
〝携帯電話に機能が増えたって、かけたい相手は増えないし、
話すことなど決まっている、それと同じだ〟
ううん、切ない。
そんなクルマへの愛情、そして失意と重ね合わせるように、
本城との関係にも変化がもたらされていく、ラストが、何ともいえない余韻を残すのだ。
作者の会社員時代、
営業で使っていたカローラバンについて語ったエッセイも、これまた味わい深い作品。
過去の作品と比べると、微妙に手触りは違うが、それもまたよし。
風変わりではあるし、横書きの小説の読みにくさもある。
だが、それを差し引いても、十分に楽しめる一冊だった。