ジェス・ウォルター「市民ヴィンス (ハヤカワ・ミステリ文庫)」
〝男には許されないのか、小市民的な幸せさえも。〟
「本の雑誌 285号」3月号で気になった1冊。
マイクル・コナリー、トマス・H・クック、
ジョージ・P・ペレノーケスらの作品を押しのけ、
アメリカ探偵作家クラブ賞の最優秀長編賞を受賞したという逸品だ。
原題もそのまま〝CITIZEN VINCE〟。
オーソン・ウェルズの「市民ケーン」を思わせるタイトルでもある。
時はジミー・カーターとロナルド・レーガンで争われた大統領選を目前に控えた、1980年10月。
ワシントン州の小都市スポケーンでドーナツ屋の雇われ店長を務めるヴィンスは、
本業の傍ら、偽造クレジットカードとマリファナで小商いに精を出している。
ニューヨーク訛り。ポーカーにも、女にも、犯罪にも玄人はだし。
精算したはずの過去に脅えながら暮らす、ヴィンスの周囲に新たな異変が起きる。
捨てたはずの過去と向き合うことになった時、ヴィンスがとった行動は−
小悪党の主人公が、人生の危機を前に、大きく変容していく。
その様を克明に、しかも彩り豊かに描いていく、不思議な魅力に満ちた作品だ。
何よりも、その主人公の設定がうまい。
〝ヴィンス・キャムデンについて――三十六歳。
白人。独身。身長六フィート、体重六十ポンド。
肩幅が広く、痩せているので、マティーニ・グラスのように見える。〟
ごく普通の〝市民〟に映る人物。
そして職業は一見平凡にも思えるドーナツ屋の雇われ店長。
だが、ヴィンスには人には言えない〝ある過去〟があった。
そんなヴィンスだから、雇われ店長といっても一筋縄ではいかない。
〝ドーナツをつくるのは、ひとが考えているほどむずかしいことではない。
ヴィンスはそこが気にいっている。
朝の五時前に出勤し、昼前にあがれるというのもいい。
昼食をとりにいって、それでもう帰ってこなくていいのだ。
それで、世界を少し出し抜いたような気分になれる。
この“世界を出し抜きたい”という願望は、
変えることのできない自分の性格の一部だとわかっている。
“ずる”の遺伝子を持っているということだ。〟
というわけで、そのずるの遺伝子を活用し、
偽造クレジットカード詐欺の商売をしてみたり、
原価販売というマリファナでこまごまと稼いでみたり、というヴィンス。
しかし、過去はヴィンスを放っておいてはくれない。
陰謀か、それとも被害妄想か。
ヴィンスに迫りくる危機。そんな中でヴィンスは、ある夢に目覚める。
かつて愛した女が築いた、幸せな家庭を目にした時だ。
朝刊を取りにポーチに出てきた女に、羨望を覚える。
〝ヴィンスがいつか手に入れたいと思っていたものが、すべてその映像の中にある。
妻、家、朝刊。自分の夢のささやかさに、一瞬、苦々しさを覚える。
なにも大統領になりたいとか言っているわけではない。ごく平凡な夢なのだ。
なのに、かぎりなく遠いところにあるような気がする。〟
そんな小市民の夢に目覚めたヴィンスの行動が、何ともこころに迫るのだ。
どう過去と向き合うのか、本当の自分の望みはなんだったのか…
そんなヴィンスの葛藤と絶妙のリンクを見せるのが、
カーターvsレーガンの大統領選であり、スポケーンの市議選でもある。
ものごころついた時から常に犯罪者だったヴィンスが、
一度も気にしたことがなかった、投票という市民の権利。
一市民として目覚めたヴィンスの自覚が、物語に一本スジを通すのだ。
そんなヴィンスのドラマを盛り上げるのは、個性豊かな脇役たち。
警邏から転属されたばかりの若手刑事に不動産屋を目指す娼婦、NY市警の汚職警官に、
〝いい動物園〟を夢見る市議会議員候補などが次々登場し、ドラマは賑やかに展開していく。
田舎町特有の何とも言えない連中も、独特の味わいを加える。
だからこそ、圧倒的な見せ場がないにもかかわらず、物語の世界にグッと引きずり込まれるのだ。
そして物語は、かすかな苦味を伴う余韻を残し、爽やかに幕を閉じる。
ここまであっという間の一気読み。
なるほど、これは見逃せない1冊だと、感心させられるのだ。