グレアム・グリーン「ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)」

mike-cat2006-10-26



〝「新訳」で贈るスパイ小説の金字塔〟
冷血 (新潮文庫)」「ロリータ」など、
名作の新訳が最近はちょっとしたブームになっている様子。
グレアム・グリーンのこの作品も、その流れに乗ってか、新訳と相成った。
レイフ・ファインズジュリアン・ムーア主演の映画「情事の終り (新潮文庫)」ぐらいしか、
グリーン作品には縁がなかったのだが、これを機会に初挑戦してみる。


〝イギリス情報部で漏洩が発覚。
 厳しい内部調査が始まり、ソ連に通じる二重スパイの苦悩はやがて限界に…〟
舞台は冷戦下の英国情報部。
主人公は、情報部のアフリカ担当部門に務める62歳のモーリス・カッスル。
いわく〝鈍そうな男で、整理整頓は一級の腕前<ファースト・クラス>〟。
そのカッスルが所属する部門で、重大な情報漏洩が発覚した。
疑惑がかかるのは課長のワトスン、助手のデイヴィス、そしてカッスルの3人。
緻密に張りめぐらされた策略の罠にかかるのは、はたして誰なのか−


巻末の解説などでも触れられているが、
スパイを扱った作品でありながら、いわゆるスパイ小説とはひと味違う。
英国情報部といえば、の「007」シリーズのような派手さはまったくない。
その情報戦は、登場人物たちの謎めいた言葉、婉曲めいた表現で彩られるし、
物語の中心は、その駆け引きの中で消耗していく、情報部の面々の心理面にある。


そして、その心理描写たるや、スパイ小説というより、まさに文学作品の雰囲気だ。
新訳による読みやすい文体の中にあっても、
ふとした隙に読み飛ばしてしまいそうな、巧妙な隠喩や伏線が張りめぐらされる。
まるで、読む者をも巻き込んだ、情報戦が展開されているかのようだ。


凡庸さがかえって怪しさをプンプンさせる、カッスルの裏の顔は、
序盤でも容易に予想がつくし、中盤で意外とあっさり明かされる。
だが、その味わい深いドラマは、そこからがようやく本番といった様相になる。
追いつめられた主人公がたどる、息詰まる物語は、やるせない余韻を残し、幕を閉じる。
個人的なモラル・コードに大きく反する場面があるため、
終盤はまったく主人公に感情移入できないままで読み進めることになったが、
それでも、この緻密な心理戦のドラマは、十分すぎるほど〝読ませる〟逸品となっている。
名高い作品をいまさら褒めるのも気が引けるが、やはり「さすが」の傑作なのだ。


現在となっては、ひたすら感慨深く響いてくるセリフもある。
第二次世界大戦には単純明快な大義があった−
 父親の時代よりはるかにわかりやすい大義が。
ヒトラーはドイツ皇帝とは異なる。
 そして冷戦下においては、
ドイツ皇帝の時代と同じように善悪の区別がつきにくい。〟
その冷戦時代が終わり、もっと混迷した世界となってしまった。
あまりにも明解な〝悪〟など、金正日くらいしか見当たらないし、
その〝将軍さま〟はあまりにも陳腐すぎてドラマになり得ない、
こんな時代で、小説の世界のスパイたちはどう生きていくのか…
名作体験の1冊を読み終え、そんな感慨も脳裏をよぎったのだった。


Amazon.co.jpヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション


bk1オンライン書店ビーケーワン)↓

ヒューマン・ファクター
グレアム・グリーン著 / 加賀山 卓朗訳
早川書房 (2006.10)
通常24時間以内に発送します。