トマス・H・クック「蜘蛛の巣のなかへ (文春文庫)」

mike-cat2006-01-10



近年はやや遠ざかっていた作家だが、「緋色の記憶 (文春文庫)」「死の記憶 (文春文庫)」など、
「記憶」シリーズとして翻訳・刊行が相次いでいたころは夢中になって読んでいた。
あの、独特の思わせぶりなミスリード、そして
まったくの暗闇の状態から少しずつ事実と謎が明らかになる構成…
「クック・ワールド」という言葉を使いたいほど、
その物語世界は際立った特徴を持つ作りになっていた。
ただ、近年は刊行ペースも落ちていたし、(というか1999年前後が異常なのだが)
イムリミット・サスペンスの型を取った「闇に問いかける男 (文春文庫)」が、
あまり肌に合わなかったこともあって、この本は気になりつつ保留になっていた。


内容はオビの通り〝復讐か、父との和解か〟
舞台は、典型的な東部の田舎町ウェスト・バージニア州のキンダム郡。
ガンで余命が短い父の看病のため、〝私〟はかつて捨てた故郷に戻る。
父との不和、弟の自殺、ひき裂かれた恋…
様々な忌まわしい記憶の真相を〝私〟はついに知ることとなる。
人生の岐路に立った〝私〟の選択は、復讐か、それとも、父との和解なのか−


手法としては「蜘蛛の巣の記憶」というタイトルにしてもいいくらい、
いかにも、クックらしい作品だ。
物語の序盤、読者はほとんど情報らしい情報を与えられない。
まず示されるのは、
常に不機嫌なまま、人生を過ごした父が最後の期を迎えること、
弟にまつわる忌まわしい記憶が〝あるらしい〟こと、
かつて愛し、そしていまも忘れられない〝彼女〟のこと…。
それらの事実がどう絡み合い、いまの〝私〟に降りかかっているのか、
物語の軸となる〝謎〟に入る前段階も、ジリジリ焦らしながら説明していく。


こう書くと難解な小説のように思えるが、
焦らしつつもツボは抑え、読者を引っ張っていくところが、クックの巧さだ。
なぜ、こうまで父子は対立するのか、
なぜ、弟は悲劇に巻き込まされざるを得なかったのか、
なぜ、こうまで〝私〟は父、そして故郷に嫌悪を剥き出しにするのか、
なぜ、この町にはどんよりとした雰囲気が漂うのか…
事実関係に関する〝なぜ〟が解かれていく一方で、
こんどは事件の真相が絡み合い、密接にリンクしながら、
文字通り〝私〟を蜘蛛の巣に絡み取っていく。
このあたり、過去の傑作と比べると弱い気もするが、
クック健在を思わせるだけの技の冴えは、随所に感じられる。


ただ、テーマとなる父子の対立、そして和解はどうだろうか。
物語が、息子の〝私〟の一人称で語られる以上、しかたないのだが、
どうしても息子の意固地な態度が、そのまま作品のトーンになってしまっている。
父への深い反感は、序盤の一節で明快に示される。
〝父は間違った結婚をしたが、ぼくは結婚しないことを選んだ。
 父は息子をふたりつくったが〟どうやってかはともかく、そのふたりとも失った。
 ぼくはこどもはつくらなかった。
 どちらの人生でも、家族という夢は幻滅に終わり、
 なんの歓びもない結びつきが残っているだけだった。〟
父親だけでなく、その父親に影響された自らの人生も否定する。
ある意味、究極の全否定といってもいいだろう。


ここまではよくある話。
で、事件の真相を知るに連れ、誤解は解かれていくのだが、
その解かれ方がどうもあまりよろしくない印象を覚えさせるのだ。
父の非道ぶりを嘆く息子の視点が、どうにも幼稚で独り善がりなのだ。
だから、主人公たる〝私〟に、感情移入が出来ない。
比べて、父親の抱えた苦悩が、容易に理解できることもあって、
なかなかその苦悩に気づかない〝私〟に、苛立ちすら覚えるのだ。
もちろん、そこらへんはヒトぞれぞれ感じ方が違うだろうから、
簡単に斬り捨てるわけにはいかないのだが…


〝私〟の腑抜けぶりも感情移入できない一因だ。
初恋の彼女への侮辱に、立ち上がることすらできないばかりか、
侮辱した相手を弁護すらしてしまう、弱い〝私〟。
人間誰しも、弱さは持っているものだが、
その卑屈で卑怯な弱さを、身内に対してだけ、やたらと饒舌に言い訳する。
ひとことでいえば、典型的な〝小さいやつ〟だ。
舞台が南部ではなく東部、ということになると、
また社会的な価値観で、微妙な部分もあるのだろうが、
やっぱり感情移入できないことは確かなのだ。


そんなわけで、いかにものクックらしさを味わう一方、
釈然としないモノもやや感じながら本を閉じる。
すると、背表紙側のオビに
9・11のワールドトレードセンター崩壊以後、クック作品は変わった〟とある。
もちろん、その後に続く〝一筋の光明〟を意味しているとは思うのだが、
先に書いた、僕にとっては感情移入できない部分なんかも、
その「変わった」というとこの一部なのかな、と勝手に思ったのだった。