黒川博行「蒼煌 (文春文庫)」

mike-cat2007-11-18



「先生、一億円を撒かんとあかんのでっせ」
「国境」「疫病神」黒川博行による、文庫最新刊。
芸術院会員選挙を舞台に、
 金と権力に憑かれた
 日本画壇の暗部を描く問題作。〟


日本芸術界でもっとも権威のある芸術院の、次期会員選挙が近づいた。
前回選挙で涙を呑んだ日本画家の室生は、
念願の会員入りに向け、露骨な票獲得戦術に打って出る。
対立派閥のライバル稲山も、そんな室生に引きずられるように、
不本意ながらも、接待攻勢での集票活動にのめり込んでいく。
傲慢で下劣な室生に翻弄される、弟子の大村に、
かつて京都画壇のフィクサーとして活躍した老舗画廊の殿村、
選挙活動に身を投じる稲山に違和感を覚える孫の梨江。
商品券に現金、美術品、さまざまな思惑に駆け引き…
金と名誉、権力。欲にまみれた画壇内の争いは熾烈を極めていく。


ストーリーの軸をなすのは、室生と稲山の争いだが、
物語の心象風景として、その中心をなすのは、
その2人を囲む大村や梨江、殿村といった面々である。
室生の腰巾着として、画壇の序列に絡み取られた大村は、
室生の会員当選こそが、将来へつながる唯一の道である。
もちろん、疑問は感じている。
なぜ、絵が好きだった自分が、いまはこんな人間になったのか。
〝写生は楽しい。
 ただ黙々と鉛筆を滑らせていると、いやなことはみんな忘れられる。
 画学生だったころを思い出す。
 真夏の炎天下、麦わら帽子を水に浸して写生に没頭した。
 そう、あの頃は無限の夢があった。〟


だが、まるで仙人のように暮らす画家、奥沢や勝井のように、
画壇での序列を無視して、好きなように絵を描く生活には戻れない。
〝絵描きも会社員も、政治家も官僚も、出世したいのはみんな同じだ。
 なにが契機でその道を選んだかは分からないが、
 選んだからにはその世界で頂点に立つのが人生の目標になる。
 大村にはもう、奥沢や勝井のような生き方はできない〟


親の金で好きな絵を続ける稲村の孫娘、梨江は、
選挙に奔走する祖父に疑問を感じつつ、同情のような感情も抱く。
〝絵描きは不安なんやと思う。
 自分の描いてる絵がほんまにおもしろいのか、
 ほんまにいいものなんか、邦展や新展や燦紀会に応募して確かめようとする。
 若いころはただ純粋に絵が好きで描いてたのに、
 いつのまにか出世とお金のために絵を描いてる〟
矛盾した感情は、祖父の選挙参謀でもある母への八つ当たりに変わる。


京都の老舗画廊・夏栖堂の隠居、殿村とて、複雑な思いは変わらない。
かつてフィクサーとして、京都の画壇を仕切り役を自認した殿村は、
下劣で傲慢な室生の参謀役をあえて引き受ける。
〝できのわるい子ほどかわいい―。
 そんな感情ではなかったか。
 人間的には稲山の方が上だろうが、それだけで割り切れるものではない。
 ひとにどう見られようと必死で這いあがろうとする室生の姿に
 打たれたといえば、きれいごとに過ぎるだろうか〟


そんな3人を中心に描かれる、
澱みきった画壇を舞台に展開する、えげつないまでの泥仕合
さすが黒川博行、とうなりたくなる内幕ものである。
そこかしこに挿入された、実話とも思えるエピソードの数々は、
芸術という、明確な尺度のない世界に踏み込んでしまった俗人たちの、
悲哀と滑稽さは、むしろペーソスともいえる味わいを醸し出す。
ストーリー展開も絶妙で、とにかくやたら読ませる1冊。
間違っても夜中に読み始めることがないよう、警告しておきたい。
一気読みで、翌日寝不足は、必須の傑作だからだ。