阿佐田哲也「麻雀放浪記〈1〉青春篇 (文春文庫)」
〝この本を読まずして博打を語るなかれ!〟
真田広之、鹿賀丈史主演で映画化もされた、
阿佐田哲也のマスターピースを、文庫再収録。
〝坊や哲、ドサ健、上州虎、出目徳……
終戦直後のドヤ街を舞台に、
博打に生きる男たちの戦いを描く「阿佐田哲也麻雀小説」の傑作!〟
舞台は終戦直後の東京。
仕事からあぶれた青年・哲は、ふとしたきっかけから、
焼け野原の賭場で、チンチロリンに手を出すことになる。
そこで出会った博打打ち、ドサ健に魅せられた哲は、
いつしか、どっぷりと博打の世界にはまっていくのだった―
およそ20年ぶりの再読、である。
高校生の時分(ああ、年齢がバレる…)、麻雀に夢中になった。
授業をサボって朝から雀荘入り浸りはもちろんのこと、
仲間うちで通算成績をつけてみたり、プロも出場する大会に出場してみたり…
当時は麻雀漫画も大ブームだったので、
片山まさゆきの「ぎゅわんぶらあ自己中心派」、「スーパーヅガン」、
阿佐田哲也を中心に、昭和40年代の麻雀ブームを牽引した、
「麻雀新選組」の顛末を描くかわぐちかいじの「はっぽうやぶれ」、
80年代の麻雀好きなら、誰もが一度は真似をしたであろう、
能條純一の「哭きの竜」などなど、なんでもかんでも読み漁った。
麻雀史に燦然と輝く、この大傑作は当然読んだ。読みふけった。
小説に登場するイカサマの手口も、面白がって練習した。
当たり前のことながら、そんな上手にできるわけはなかったが…
実際の麻雀のテクニックがらみは、指南書の「Aクラス麻雀 (双葉文庫)」を参考にしたが、
やっぱり憧憬をまじえて、思い描いたのは「麻雀放浪記」の世界だった。
博打を題材にした、ピカレスク・ロマンとしての要素も色濃かった。
何もかもを博打のカタにしてしまうドサ健に対し、
どうして博打の世界で生きなければいけないのかを問う場面がある。
「何故、博打なんか打って生きるの」
「そんなこと知るもんか。
だがな、こりゃァなにも珍しい生き方なんかじゃねえんだぜ。
本来は皆、こんなふうにして生きるもんなんだ。
それじゃ不幸だっていったって、仕方がねえんだよ」
「何故なの、負け惜しみでしょ」
「どうだかな。不幸じゃない生き方ってのは、
つまり安全な生き方って奴があるだけだな。
安全に生きるために、他のことをみんな犠牲にするんだ」
しびれるようなセリフの数々は、時代を越えて輝いている。
麻雀をする機会もめっきりなくなった今、あらためて読むと、
懐かしさとともに、ひさしぶりに牌を握りたい衝動が甦る。
小説のように格好のいい麻雀はできないけど、
何だかあの燃えるような感覚を、もう一度味わいたい…
そんな気持ちを思い出すだけでも、やたら楽しい1冊なのである。