朝倉かすみ「そんなはずない」

mike-cat2007-07-22



〝抜け目なく生きてきた、なのに。〟
肝、焼ける」の朝倉かすみ最新作。
〝ユーモラスで純粋。恋愛、それにまつわる災難の物語。〟
30歳の誕生日を挟んで、
たてつづけのトラブルに巻き込まれた女性の心の揺れを描く。


30歳を前にした松村鳩子は、
実家に結婚の申し入れをしたばかりの恋人に、突如逃げられた。
そして30の誕生日の翌日、こんどは職を失う。
たてつづけのトラブルの中、出会った年下のオトコ、
そして変わり者の妹との軋轢、過去の男たちとの再会…
そんな折、鳩子の周辺を探る探偵も現れ―


息苦しいほどの熱い恋を描いた前作「ほかに誰がいる」から一変、
デビュー作「肝、焼ける」のような、そこはかとない浮遊感や気怠さ、
それでいて、オンナの本音みたいなのもちらつく、軽妙なペーソスあふれる作品だ。
物語そのものは、つかみどころのない印象も覚える。
だが、そのつかみどころのなさこそ、この作品の味わいといっていいだろう。
定型のパターンに縛られた恋愛模様や成長物語と違う、
独特のリアルさとともに、生き生きとした感情描写がこころに沁みてくる。


そして、主人公鳩子のキャラクターと、その感情描写は、作品の最大の魅力である。
あの「肝、焼ける」でも際立っていた、ユーモラスだけど切実な情景描写が、
この作品の中でもほかにはない輝きを随所で放っている。


物語は、恋人の突然の逃亡劇で幕を開ける。
前日に、鳩子の実家を訪れたばかりの薄井孝道が連絡を絶ってしまう。
〝……たったきのう、と、鳩子は思った。
 たったきのう、の、
 「たった」を鼻腔に引っかけるようにして胸のうちで吐きだした。
 洟をすすりあげている。空洟ではない。
 逃げたなという直感が輪郭を持って立ち上がっていた。
 鳩子のひたいを、覆うというより、張りついている。べったりとだ。〟
凝っているのに、作為的じゃない。風変わりだけど、グッと伝わる。
そんな独特のリアリティが漂ってくる表現に、いきなり引き込まれる。


その、薄井孝道との出会いもやたらとおかしい。
初対面を果たした合コンから、そのまま流れていく様である。
〝ぐんぐん、ぐんぐん、という感じで持っていかれた。
 ざぶん、というより、どぶん、と飛び込む感じ。
 それもやっぱりわるくないと鳩子は思った。
 情熱をやっている、という実感があった。
 薄井孝道はまったく情熱的だった。
 かれは鳩子のブラジャーをぐいっとめくりあげた。
 小さなショーツを引きちぎるようにして一気に剥いて、
 どさりと体重をかけてきた。〟
どぶんと飛び込み、ぐいっと、どさりと、されてしまう感じ。
擬音がいかにも妄想まじりの回想っぽくて、何だかいい。


そんな鳩子の気怠さとシラけぶり、
胸の内で蠢く、ちょっとよこしまな打算もいい。
薄井孝道は、鳩子にとっていわゆる〝八人目のオトコ〟だったのだが、
その「八」という数字に対し、鳩子の中での葛藤が描かれる。
〝結婚するまでに、ふた桁に乗るのはいかがなものかと漠然と思っていた。
 ふた桁、と、なると、いかにも「多い」という感じがするのだった。
 多くてだめという気ははなからないが、
 「多い女」にはそこはかとない抵抗感を持っていた。
 抵抗感というより、ちがう、という感じだ。
 そういうタイプではないと、鳩子は鳩子自身を見積もっている。
 「多い女」のうつわではない。〟
恐れ入りました、というくらい、リアルな感覚で迫る〝思考〟である。
うつわ、というのも、やたら笑えるキーワードで、作者のセンスを窺わせる。


そのうえ、この鳩子ったら、
PCのアドレス帳に過去の足跡を残していたりする。
思わず、「ジェームズ三木か!」と突っ込みたくなるキャラクターだ。
〝名前とアドレスを目でなぞると、さかむけを剥がしたような痛みが胸に走る。
 それでいて、コレクションをながめる好事家じみた笑みも、
 頬にのぼってくるのだった。〟
想像しているだけでも笑ってしまう、そんな場面が描き出されるのだ。


そんなこんなで、引用を続けたらきりがないほど、
グッとくるフレーズが散りばめられた、まさに傑作。
〝読者を翻弄する筋(プロット)
 隙のない文体(スタイル)
 厭味なまでの細部(ディテール)――
 読了後の、充実した疲れ。上手すぎてちょっと腹立つんですけど。〟
「スヰートで辛口な小娘(フィエット)のためのブックガイド」を掲げた
千野帽子の「文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。」によるオビの惹句が、やたらと頷けるのだった。


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