梅田ガーデンシネマで「街のあかり」

mike-cat2007-07-12



〝希望を灯す〟
フィンランドの奇才、アキ・カウリスマキによる、
最新作は、<敗者3部作>の完結編。
チャップリン「街の灯」にオマージュを捧げ、
愛と希望を切なく、そして美しく描く。


舞台はフィンランドヘルシンキ
夜警のコイスティネンは、家族も、友人も、恋人もいない孤独な男。
そんなコイスティネンの前に現れた、謎めいた、美しい女。
女はコイスティネンの孤独につけ込み、彼を事件に巻き込んでいく―


カウリスマキ、本当に久しぶりである。
オムニバスの1編を手がけた「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」をのぞけば、
長編は、あの「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」以来。
実は、<敗者3部作>の過去2作、「浮き雲」「過去のない男」も観ていない。
ついでにいうと、オマージュを捧げたチャップリンのマスターピースも、
観た記憶はあるのだが、何せ20年以上前にTVか何かでいいかげんに観たくらい。
だから、そうした関連づけ、という意味では、かなり苦しい部分はある。


北欧独特の風景なのかも知れないが、どこか殺風景なくすんだ色合いに、
毒々しいまでに映える、赤や青などの原色のコントラストがやはり特徴的だ。
カウリスマキ作品の色調というのだろうか、
これがどうにも苦手な気がして、予告を観ては忌避していた。
何となく、昔のSFの未来を垣間見るような感覚なのだろうか。
悪夢系のおとぎ話を見せられるような、独特の映像は今回も健在のようだ。


おとぎ話のような感覚は、話の展開や、場面場面の演出なんかにも共通だ。
コイスティネンが周囲から浮き上がる描写や、
いわゆる意地悪をされる描写、そして泥沼の事態にはまっていく様は、
まるで不条理な悪夢を見せられているような、独特の浮遊感を伴う。


だからこそ、冷静に考えたら、
むしろ負け犬で当然なコイスティネンの姿が、ドラマになる。
不器用さを言い訳に、自らを孤独という自縛にかけていくコイスティネン。
温かく見守ってくれる人に背を向け、頑なに身勝手な希望を貫く。
現実の世界にいたら、まさしくお付き合いしたくないタイプだが、
この、カウリスマキの作品世界では、不思議なぐらい、純粋にも映る。


仕事を、夢を、自由を、奪われてもなお、希望を捨てないコイスティネン。
その希望は現実の世界ではむしろ、マイナスにしかならないが、
カウリスマキは、その希望を儚くも美しい、大切なものとして描く。
〝主人公にとって幸いだったのは、
 この映画の監督が心優しい老人だったということです。
 ラストシーンは希望で光り輝いています。〟
カウリスマキ自らがこう語るように、ラストの出来はかなり秀逸だと思う。


海辺の街で起こった平凡なはずの悲喜劇に、何ともいえないペーソスが灯る。
おそらく、根源的な部分で、カウリスマキを受け付けない部分はあるのだが、
それでもなお、その、独特の型、というか、作品世界の完成度はやはり凄いと感じる。
おそらく、お好きなヒトが観たら、心から感動するんだろうな、と思いつつ、
その秀逸さの割に、どこか乗り切れない自分を感じるのが悔しいのだった。