堀江敏幸「めぐらし屋」

mike-cat2007-05-15



〝わからないことは
 わからないままにしておくのが
 いちばんいい〟
雪沼とその周辺」「いつか王子駅で (新潮文庫)」の堀江敏幸最新作。
〝記憶と謎に導かれ、蕗子さんが向かった先は…。
 著者待望の最新小説〟
毎日新聞日曜版の連載をまとめた1冊。


地方の町にひとり暮らす蕗子さん(悩みは低血圧)は、
知人の会社に長く勤めるすこしズレた、ほわんとした女性。
長く離れて暮らした父の遺品に見つかった1冊の大学ノートが、
蕗子さんの静かな暮らしに、ちょっとした波風を立てる。
幼いころの記憶を呼び起こす、懐かしい絵とともに現れた、
大書きされた、見慣れない「めぐらし屋」の文字に悩む蕗子さん。
忘れかけた父の記憶と、知ることのなかった父の姿を求め、
蕗子さんは、ひとびとをめぐり、そして想いをめぐらせていく―


読み始めたら、もう止まらなくなる。
冒頭で語られる、黄色い置き傘の話だけで、もうグイッである。
一文一文、ひとつひとつの言葉を大事に大事に噛みしめつつ、
堀江敏幸にしか作りだし得ない、物語世界に引き込まれていく。
懐かしさと愛おしさ、切なさとおかしさが混じり合う文体は、まさに絶妙。
川上弘美が以前何かのオビで書いていた
堀江敏幸の文章は色っぽい」との賛辞に、またも感服してしまう。


「めぐらし屋」とは何か? 父は何をしていたのか?
〝わからないことは、わからないままにしていておくのがいちばんいい〟
父は、そう教えてくれた。でも、蕗子さんは思う。
〝いまは、それが正しいのかどうかも、わからなくなっている〟
父が暮らしたひょうたん池周辺で、知人を訪ね歩く。
〝自分の知らない時間を生き、
 知らない空間を歩いていた父について、
 なにか教えてもらえるかもしれない。〟
知らなかった父の姿が、忘れていた記憶を甦らせる。


ざっと振り返れば、物語そのものはあっさりとしたものだ。
だが、その淡さは、味わえば味わうほど豊穣で複雑なテイストに満ちている。
そして、場面場面の秀逸さは、挙げだしたらきりがない。
たとえば、自宅に戻った蕗子さんが、父の家でのことを思い出す。
〝インスタントコーヒーでも飲もうとお湯を沸かしたとき、
 蛇口から水が出てくるまで何拍かの間があって、
 たったそれだけのことがなんだか妙にこたえた。
 旅行や出張で何日か家を空け、誰もいない部屋に帰ってきたときの感覚である。
 つっかかるようなその水音は、慣れ親しんだ日々に戻ってきたというより、
 ひとつの不在をはっきりと伝える合図のように響いた。〟
これだけでも、グッとくるのだが、さらにここから少女時代の回想につながる。
序盤からもう、思わずため息がもれるほど、こころに迫ってくる。


蕗子さんがたどるのは、父の謎を追い求める道だけではない。
〝ながいあいだのひとり暮らしで、蕗子さんは、
 日を送ることにひそむ際限のない反復の魔を意識するようになってもいた。〟
あたらしいことを見いだすことに対し、億劫になっていた蕗子さんが、
「めぐらし屋」の謎をきっかけに、すこしずつ、変化していく。
〝父の死は、だから気持ちを沈ませるのと同時に、
 心を静かにゆさぶる刺戟にもなっていた。〟
そして、蕗子さんが最終的に向かう先…
読み終えても、その余韻と感慨の中で「ほーっ」とか「ふーっ」とか、ため息が続く。
堀江敏幸、つくづくいいなあ、とあらためて感じさせてくれる1冊なのだった。


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めぐらし屋
めぐらし屋
posted with 簡単リンクくん at 2007. 5.13
堀江 敏幸著
毎日新聞社 (2007.4)
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