森見登美彦「新釈 走れメロス 他四篇」
〝あの名作が、京の都に甦る!?
暴走する恋と友情――
若き文士・森見登美彦の近代文学リミックス集!〟
表題作の太宰治「走れメロス」に、中島敦「山月記」、芥川竜之介「藪の中」、
坂口安吾「桜の森の満開の下」、森鷗外「百物語」を現代流&森見登美彦流に〝新釈〟。
「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」のテイストを存分に効かせつつ、
ボンクラ大学生たちが狂騒曲を奏でつつ、京都の街を闊歩する。
〝異様なテンションで京都の街を突っ走る表題作をはじめ、
先達への敬意(リスペクト)が切なさと笑いをさそう、五つの傑作短編。〟
5編を通じて登場する、一種の狂言回し的なキャラクターは、斎藤秀太郎。
〝京都吉田界隈にて、一部関係者のみに勇名を馳せる孤高の学生〟であり、
〝杯盤狼藉に及ぶことは滅多になく、桃色遊戯や単位取得といった俗事に色目をつかうこともなく、
たいていはドストエフスキー的長編小説の完成を目指して、くしゃくしゃと一心不乱に〟書くボンクラだ。
そんな斎藤秀太郎が、本家「山月記」の虎となった李徴よろしく、大文字山で化ける。
カカカと笑えて、どこか切ない、そんな「山月記」リミックスから、
恋人たちの在り方をしっぽりと描いた映画「屋上」をめぐる多角的な視点の物語「藪の中」へ、
詭弁に満ちた、奇妙な友情を描いたコメディ・ミックス「走れメロス」で笑いを誘った後は、
「桜の森の満開の下」で、いつしか姿を変えてゆく夢を描き、切なさを誘う。
そして、森見くんが登場する、自伝めいた「百物語」では、一風変わった恐怖を描いている。
正直「走れメロス」ですら、おおまかなストーリーしか覚えていないと言う、
まさに不覚な読者であるが、それでもそこに通じる物語のスピリットはグイッと伝わってくる。
あとがきで作者自身が語っている、それぞれの作品への愛着。
〝「山月記」は、虎になった李徴の悲痛な独白の力強さ。
「藪の中」は、気に縛りつけられて一部始終を見ているほかない夫の苦しさ。
「走れメロス」は、作者自身が書いていて楽しくてしょうがないといった印象の、
次から次へと飛びついていくような文章。
「桜の森の満開の下」は、斬り殺された妻たちの死体のかたわらに立っている女の姿。
「百物語」は、賑やかな座敷に孤独に座り込んで目を血走らせている男の姿〟
そのどれもが、元ネタを覚えていない(読んでいない)読者にも、明解に見えてくる。
そこにまぶされる、モラトリアムそのものの雰囲気もまた、たまらない。
森見作品でお馴染みの面々やクラブ、そして学生時代の風景としての京都が、
何だか、いろいろなことが大ごとに感じたり、大げさにリアクションしたり…
もう、(たぶん)戻ることのできない、あの頃。
特に「走れメロス」で描かれる友情と、「百物語」の〝私〟が味わう切なさが抜群だ。
そんな一種の、懐かしい感情を思い起こさせ(別に京都で学生時代を送っていないが)、
切なさと可笑しさがないまぜになった気持ちを味わわせてくれる。
さらっと楽しく読むもよし、じっくり味わって読むもよし。
近代文学の名作の精神と森見登美彦の世界をともに満喫できる。
願わくば第2弾を、なんて思ってしまうくらい、贅沢な1冊とも言えるだろう。
森見登美彦、つくづく深い。もっともっと読み進める必要がありそうだ。