歌野晶午「世界の終わり、あるいは始まり (角川文庫)」

mike-cat2006-11-12



〝既存のミステリを超越した、崩壊と再生を描く衝撃の問題作!〟
葉桜の季節に君を想うということ (本格ミステリ・マスターズ)」の歌野晶午による話題作が文庫化。
〝私の子供が誘拐犯なのか?〟
東京近郊を舞台に、次々と起こる誘拐殺人事件。
子供を標的にした残虐な手口が世間を騒がせる中、
自分の息子に疑いを持った男の、こころの葛藤を描き上げる。


東京近郊では次々と子供が犠牲となる連続誘拐殺人が、世間を騒がせていた。
100万、200万という安価な身代金、人質をすかさず殺害する残虐な手口。
陰惨な事件にも、自分たちには関係のないこと、と割り切っていた、
入間市在住の会社員、富樫修(〝私〟)だったが、ある日、奇妙なことに気付く。
息子の雄介の行動がどうもおかしい。
何の気なく調査を始めた修は、たてつづけに明らかになる奇妙な符合に悩み苦しむ。


歌野晶午は「女王様と私」に続いて2冊目だが、
どちらも、反則スレスレというか、確信犯的な境界線越えというのか、
現実と虚構が入り交じるその手口には、苦笑いを禁じる一方、
その語り口の饒舌さに、思わずグイグイと引き込まれる作品だ。
作家が、小説を書いては書き直し、もう一度書き直してはまた修正し…
そんな過程をそのまま見せつけられるような独特の感覚には、
賛否両論あるのかもしれないが、このクオリティならこれもアリかな、と思う。


一般的なモラル基準からいえば、かなり挑発的な議論も織り込まれる。
たとえば、次々と子供が犠牲になる事態においても、〝私〟はこう考える。
「自分さえ巻き込まれなければ別に何ともない」
「被害者が子供だから騒がれているけど、老人だったら?」
「(息子が犯人として)被害者や遺族より、自分たちの生活は?」
単なるお祭りとして大騒ぎするマスメディアが振りかざす、
建前だけの正義とは一線を画し、誰の頭の中にもよぎりそうな、
口には出せない本音が、赤裸々に語られていく様子が、興味深い。


試行錯誤を繰り返し、〝私〟がたどりついた結論は、
あまりに危険で、それでいて切ない、後味の悪さを醸し出す。
それでも、私はこう振り返るのだ。
〝本当にこれでよかったのか。いや、よかったのだ。私はそう信じる〟
読み終えて感じる、複雑な余韻は、小説の実験的な性格だけでなく、
こうした何ともいえない結末にも、大きく起因しているのだ。


ミステリの文法からは、たぶん外れているのだと思うし、
正直なところ、気持ちのいい作品とはとてもじゃないが言い難い。
それでも、読み進めずにはいられない魅力にはあふれた作品。
ハードカバーではどうかな、とは思うが、文庫なら間違いなく〝買い〟ではなかろうか。


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世界の終わり、あるいは始まり
歌野 晶午〔著〕
角川書店 (2006.10)
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