堀江敏幸「いつか王子駅で (新潮文庫)」

mike-cat2006-09-29



路面電車走る下町の日常を情感込めて描く長編小説〟
熊の敷石 (講談社文庫)」「雪沼とその周辺」の芥川賞・川端賞作家による、
最初の長編の文庫化、ということになる。
文庫で180ページ足らずのボリュームだが、
その中には、さらりとしていながら、濃密な物語が詰まっている。


時たま舞い込む翻訳の仕事や時間給講師などで糊口を凌ぐ〝私〟の日常を、
都電荒川線の走る下町・王子を舞台に、
昇り龍を背負った印章彫り職人の正吉さんに古書店主、
居酒屋「かおり」の女将や、大家の娘・咲ちゃんらとの交流を、
数々の文学作品や昭和の競馬史を彩る名馬の思い出を交え、描いていく。


この小説を語る上で特筆すべきは、まず堀江敏幸一流の文体にあるのだろう。
〝やはり正真正銘の極道者だった時代があるのだろうか、〟
で始まる冒頭の一文は、改行どころか「。」もないまま、11行にも及ぶ。
しかし、普通なら読みにくさすら感じるはずの、その文体がやけに心地いい。
思考の奔流をそのまま書き記すように、滔々と流れていく文章は、
小説を読むという娯楽の醍醐味を、存分に味わわせてくれる。
熊の敷石 (講談社文庫)」のオビだっただろうか、
川上弘美堀江敏幸の文章を〝色っぽい〟と評していたのが、やたらと頷けるのだ。


中でも、その〝色っぽさ〟が光るのは、動作の描写だと思う。
こだわりの古書店主が、本にかけるパラフィン紙を準備する場面の記述だ。
〝はさみの刃を交差させず、
 正しく構えたその道具の下の刃だけを使ってすこし両端を引っ張り、
 糸電話の振動板みたいに皺のなくなった紙をシャーと音をたてて切り裂くと、
 こんどは本の大きさに合わせて両刃でしゃきしゃきと切り目を入れる。〟
職人の手練れの技を、そのまま手練れの文章にして再現する。


もちろん、その魅力は文体だけではない。
主人公の〝私〟のキャラクターも、何とも味わい深い。
都電荒川線に惹かれ、懐かしの黒電話にこだわる〝私〟は、
〝山間部を走る高速道路のサービスエリアの喫茶コーナーで
 完璧なサンドイッチと完璧な珈琲を出すような仕事をしてみたいと夢見ることがあった。
 いや、中年に差しかかったいまでもまだそんな夢を捨て切れていないのかもしれない。〟
そして、王子を天王洲と姉妹都市にして
東北新幹線京浜東北線と都電とモノレールが交錯する近未来の下町に変貌させる〟
という、夢ともつかぬ妄想をたくましくしている、不思議な人物でもある。


そんな〝私〟が「子供心に似たほのかな狼狽心」をめぐって、
日々の自分のあり方に疑問を感じてみたり、
「待つこと」「待たされること」「待機すること」をめぐって、
その違いと労力について考察を深めていったり、という物語は、
静かながらも、どこか心地よい刺激に満ちた日常を感じさせてくれる。


何かに触発され、〝私〟が思いを馳せる数々の文学作品も興味深い。
島村利正の「残菊抄」「清流譜」「妙高の秋」、徳田秋声の「あらくれ」、
赤羽末吉の挿絵による「スーホの白い馬」…
正直なところ、あまり縁のない作家・作品ばかりなのだが、
堀江敏幸の紹介の巧みさに、思わず心惹かれていってしまうのだ。


上手く説明できないもどかしさはあるが、やはり堀江敏幸はいいとあらためて実感した1冊。
夢中で読み終えて、余韻に浸りながら、
またひさしぶりに「雪沼とその周辺」が読みたくなってしまったのだった。


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いつか王子駅で
堀江 敏幸著
新潮社 (2006.9)
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