アンドレイ・クルコフ「大統領の最後の恋 (新潮クレスト・ブックス)」
〝飄々としたユーモア。奥深い世界。
『ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)』の著者の最新長編〟
あのユーモアとペーソス、微妙な不条理感がマッチした傑作、
「ペンギンの憂鬱」にも通じる、絶妙な味わいの小説だ。
心臓の移植手術を受けたウクライナ大統領のもとにある日、
その心臓の「持ち主」を名乗る謎の女性が現れる。
奇妙な感覚を抱えたまま、多忙な日常を送る大統領。
過去との不思議な因縁、そして新興財閥《オルガリヒ》の政敵の陰謀…
過去と現在を重ね合わせながら、ひとりの男の生涯を描き出す−。
女性の間をあっちこっちふらふらしているうちに、
ウクライナ大統領になってしまったセルゲイ・ブーニンの生涯を、
3つの時系列の同時進行で描いた意欲的な大河ドラマである。
ソ連崩壊をはさんだ1980、90年代の青年時代から、
ウクライナ独立前後の2000年代前半、
セルゲイが大統領となった近未来の2015年前後、
3つの時系列を重ね合わせ、そしてリンクさせ合いながら、ドラマは多層的に展開していく。
心臓移植というネタ自体に関しては、
映画化もされたマイクル・コナリーの「わが心臓の痛み」や、
ショーン・ペン主演の「21グラム」などでも見られたが、あの感覚とは微妙に違う。
むしろ、移植部位が腕という違いはあるが、
ジョン・アーヴィングの「第四の手」の方が感覚的にはやや近いだろう。
ただ、あくまでこの小説における心臓移植は、物語の縦軸のひとつに過ぎない。
やはりこの小説の最大の持ち味は、乾いたユーモアと、独特のペーソスだろう。
何となく大統領になってしまったセルゲイの数奇な人生と、淡々とした生き様。
それを3つの時系列に分けて、多層的に描き出すことで、
一種のミステリー的な楽しみをもたらすとともに、味わい深さも醸し出すのだ。
印象的な場面は挙げだしたらきりがないが、
たとえば2011年の場面。
かつての恋人ヴェロニカが、セルゲイとの諍いで取り乱す姿が描かれる。
思いがけず自制心を失い、化粧室へ向かうヴェロニカに、セルゲイは思いをはせる。
〝今、彼女の力を取り戻す助けになってくれるのは化粧室の鏡だけである。
女性の「力」というのは、顔の中にあるのだ。
それは、戦闘モードで化粧された眉や頬や睫毛、
あるいは、きつい口調や鋭い目線の中にある。
美しい女性であるということは大変なことだ。
ただ単に美しい女性でいるだけでなく、
美しい女性として「生きる」ということはもっと大変だ。〟
深い分析は、女好きの性質とともに、どこか突き放した視点をも感じさせる。
こんな主人公には、
たとえ好きであっても、距離を置かずにはいられない哀しさみたいなものも匂うのだ。
2004年の場面も忘れ難い。
〝「もしもし、今どこ?」私はスヴェトラーナに聞く。
「車の中よ。エステに行くところ」
「美人になりに?」
「あら、昨日は美人じゃなかったみたいじゃない!?」
私は笑った。昔から私は女性と会話するのが苦手だったが、それは今も変わらない。
唯一の違いは、今はそれを恥ずかしいと思わないことだ。〟
これは自分でも思うことだが、年齢を重ねて自覚することは、恥の概念が薄れることだ。
恥ずかしげもなく飄々と何でも口にする、いまの図々しさを、
あの10代の頃に持っていたら…、などとつくづく考えてしまうあたりが情けなくもあるが…
もの悲しさで印象深いのは1985年の場面。
いわゆる〝こころの病〟で双子の弟ジーマが入院する。
弟の不在に寂しさと、哀しさを感じるセルゲイ。
〝ふと弟が可哀相になった。そして、なぜだか自分自身も可哀相に感じた。
弟のベッドから目を離せないまま横になると、
なんだか自分たち二人が犬小屋の中の二匹の子犬のように思われた。
ただし、飼い主は元気な一匹だけを残しておいておくことに決めたのである。
そして弱い方は、湖に連れて行ってしまったのだ。水に沈めて溺れさせるために。〟
こうした悲哀も背負ったセルゲイだからこそ、飄々とした態度も様になる。
ボリューム的には600ページを軽く越えるし、
読み始めるまでにはちょっとした決意が必要だが、
読み始めたらけっこうあっという間に読み進んでしまう小説だ。
(風邪で寝込んだりしなければ、もっとスラスラ読み終わっていたはずだが…)
そして、読み終えると、さらっとした感触の中に、深い余韻がじんわりと残る。
訳者あとがきによれば、
ウクライナで実際に起こった政争(政敵に毒を盛った、というアレ)を予言した、
として話題にもなったという。そういうネタも含め、読み逃すことのできない1冊といえそうだ。