エマニュエル・カレール「口ひげを剃る男 (Modern & Classic)」
〝ぼく、口ひげ、剃っちゃおうかな? いいかもよ−
男は口ひげを剃り落とした。それが悪夢のはじまりだった。〟
〝ヒッチコックの戦慄を想起させ、
ポー、ハイスミス、ダールの愛読者を惹きつけてやまない、フェミナ賞作家の異色作〟
〝彼〟は、ほんの悪戯ごころ、ほんの気まぐれで口ひげを剃り落とした。
しかし、十年近く剃ることのなかった口ひげがなくなっても、
恋人のアニエスは反応すらしない。問い質しても、気味悪がられる。
悪い冗談に担がれているのか、それとも陰謀に嵌められているのか。
恋人が狂ってしまったのか、それとも自分が狂っているのか−
次第に追いつめられていく〝彼〟は、身の毛もよだつ結末へと進んでいく。
いままで信じていた事実が、訳もわからないまま否定される。
現実に悪夢が入り込んでくるという枠組みは、サスペンスでは定番ともいえる。
もちろん、よりミステリー的なアプローチだと、
きちんとしたカラクリがあって、「おう、そうだったのか」となるのだが、
最近の映画だと「フォーガットン」みたいな、とんでもないオチに引き込まれることもある。
しかし、この小説で巻き込まれる悪夢では、
安部公房の「人間そっくり (新潮文庫)」のように、主人公は、
現実と悪夢、真実と虚構の狭間にはまりこみ、抜け出すことができなくなる。
物語の冒頭、〝彼〟はいきなり悪夢にはまり込む。
剃刀を当て、口ひげを整える。毎日の日課。
〝この夕方の儀式は、禁煙を自分に課して以来、
昼食のあとだけに喫う1本の煙草と同じで、一日のバランスに欠かせないものだった。
それで得られる穏やかな快感は
思春期が過ぎるころから続いていて毎日変わることがなかった。〟
その、穏やかな時が、いきなり崩れさっていく。
口ひげなんか、なかったじゃない−。
アニエスの言葉は、ほんの冗談にも思えた。
鮮やかで社交的。エキセントリックさや気紛れも自然な魅力な恋人。
一方で、彼しか知らないアニエスの姿は、脆くて心配性で嫉妬深い。
彼女一流のジョークのはず。だが、次第に疑念が首をもたげる。
友人、そして見ず知らずの他人に、ひげの存在を問うて回る〝彼〟。
次第に、狂気に駆られていく〝彼〟を襲うもうひとつの恐怖。
口ひげだけではなく、友人が、父が、
そして身の回りの様々な現実が、会話の端々から、どんどん崩れ落ちていく。
「こうだったじゃないか?」 問い質す度に、何かが消えていく。
〝それでも…、と彼は躊躇に苦しめられる。
それでもこの取り調べは続けるべきではないのか。
渦の大きさをはっきり知るために。
それとも、一言口にする度にまた一つ失わないために、
駝鳥のように見て見ぬ振りをするのか。〟
底知れぬ恐怖にとらわれた〝彼〟は、ますます悪夢の罠にとらわれていくのだ。
こんなこと、あり得ない、と誰が言い切れるのだろう。
ここまで極端なことはそうないにしろ、どこか現実にありそうな話だ。
妄執が生み出す、極端な虚構世界は、どこに口を開けて待っているのかわからない。
突如ぐにゃりとねじれ出す現実、そして顔を見せる虚構世界。
そういえば、自分は何者なのか、どこにいるのか、何をしていたのか−
特に精神を病んでいなくても、そんな違和感を、微妙に感じることはあるだろう。
〝彼〟が辿り着いた結末は、あまりに衝撃的だが、どこか理解もできる気がする。
たかだか口ひげで始まる物語が、
読む者を惹きつけてやまない理由は、そんなところにもあるのだと思う。