川上弘美「ざらざら」

mike-cat2006-07-21



〝あいたいよ。あいたいよ。
 二回、言ってみる。
 それからもう一回。あいたいよ。
 愛しい風が吹き抜ける珠玉の短編小説集。〟


4月刊の「夜の公園」に続く、川上弘美待望の新刊は、
マガジンハウスの雑誌「クウネル」などの連載をまとめた恋愛短編集。
「ざらざら」。川上弘美らしい、繊細さと豪胆さが感じられるタイトルだ。
23編からなる、さまざまな恋愛模様は、
時に濃く、時に淡く、時にさりげなく、時にあからさまに、揺れる心を映し出す。


そして、そんな川上弘美の物語世界は、限りなく魅惑的だ。
国語辞典みたいなラジオを抱え、風に吹かれるままに奈良を旅した挙げ句、
〝鹿は鹿くさい〟と文句をたれる「ラジオの夏」から、
胸の形のいい美崎さんとの、女の子の友情を描いた「卒業」まで、
思わずキュンとなったり、ふむふむと頷いたり…
まるで宝石箱のように、キラキラしたフレーズであふれ返っている。
(宝石箱、って、どこかのテレビ芸人のせいで安っぽい表現になったが…)


たとえば「びんちょうまぐろ」での、
黒田課長との不倫関係に関する〝私〟あゆちゃんと、ゆきちゃんの会話。
〝私、別れるかも、と言うと、
 それはよかったあゆちゃん、とゆきちゃんは言った。
 でも、別れないかも、と続けると、
 それもまたよかったさ、とゆきちゃんは言った。
 ゆきちゃんは結婚しないの。
 そう聞くと、ゆきちゃんはしばらく考えていた。
 コップをゆすって氷をからからいわせながら、
 結婚は淋しそうだからなあ、と小さな声で答えた。〟
一見軽い会話に光る、絶妙のリズム、そしてペーソス。
川上弘美らしさが、グイグイと伝わってくる気がする。


〝わたし〟と恒美とバンちゃんの3人組を描く表題作「ざらざら」。
〝みんな同じ二十七歳、お酒が好きで、少しもうヤバイ感じだった。
 ヤバイっていうのはつまり、
 人生の執行猶予がそろそろなくなってきてる、っていう感じ。
 賞罰の、賞も罰もなく、長い間、のへーっとやってきたけど、
 そろそろアレだし、っていうような。〟
何だかアレなんだが(笑)、やたらと伝わってくる一節だったりする。


別れた木戸さんのことを想う「月世界」。
木戸さんとの、長い別れの過程を経て、引っ越した部屋での〝わたし〟。
〝新しい部屋をみまわすと、なんだかへんな気持ちになった。
 木戸さん、と言ってみたけれど、あんまり何も感じなかった。
 木戸さん、ともう一度言ってみたら、すごくさみしくなった。〟
これも思わず、ため息の漏れるような、切ない一節だ。


「ときどき、きらいで」では、オンナ2人の〝はだかエプロン〟が登場する。
〝はだかエプロン〟を終え、
華麗な母〝ミコちゃん〟を語る、えりちゃんの言葉。
「ミコちゃんのこと、ときどききらいになるの、やっぱりあたしやめられないや」
この、一見突拍子のない展開がもたらす物語の余韻も、何ともいえない。


「淋しいな」では、〝あたし〟が彼に振られた場面の描写が切ない。
〝「もう、会わない方がいいと思うんだ」と彼は言った。
 え、とあたしはまぬけな声を出した。
 そういうときって、まぬけな声しか出ないものだ。
 あとで1人になってから、あたしの頭の中で、
 そのときの「え」という自分の声が、エンドレスに鳴り響いた。〟
あまりにリアルすぎて、何だか自分の身に起こったような錯覚に陥る。


そして「卒業」。
男の子とまだ、自然に手をつなげない、〝わたし〟と美崎さん。
卒業式の日、ふたり手を取りあいながら、学校を後にする。
〝じきだよ。きっと、じきなんだよ。
 「でも、今の気持ち、わたし忘れたくないな」美崎さんはつぶやいた。
 つないだ美崎さんの手に、少しだけ力がこもった。〟
これも何だか、経験したこともないはずの、
〝自分の少女時代〟を思い起こさせるような、そんな気分になっている。


〝珠玉〟を謳う本は、世の中に数多くあれど、
この短編集のように、まさに珠玉の作品は、そうはあるまい。
川上弘美ワールドにどっぷり浸かり、ため息つきまくりの1冊だ。
たった200ページあまりの本にもかかわらず、
豪華絢爛で、豊穣な物語世界がたっぷりと詰まっているのだった。

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