乙一「失はれる物語 (角川文庫)」

mike-cat2006-07-05



角川スニーカー文庫の「さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)」などから、
表題作「失はれる物語」再録したハードカバーに、
文庫書き下ろしの「ウソカノ」などを加えた短編集。
独特のホラーテイストに彩られた、どの作品にも、
乙一らしい、切なさと寂しさ、そして優しさが満ちている。
作者の最高傑作、ということではないのだろうけど、
読んで損はない、おどろおどろしく、心地のいい1冊だ。


何といっても、右腕の皮膚感覚だけを残し、
全身不随となった男を描く表題作「失はれる物語」が秀逸だ。


お互い口が達者なのが災いし、諍いが絶えなくなった若い夫婦。
元音楽教師の妻が、ピアノを弾く際、結婚指輪を外すのも、
いつしか〝自分〟に対する抗議のように思えていた、そんな日常。
だが、突然の交通事故が、すべてを変える。
残されたのは、右腕の皮膚感覚と、わずかに動く人さし指だけ。


だが、右腕の上で奏でるピアノの指さばきが、〝自分〟と妻をつなぐ。
〝自分にあるのは光の差さない深海よりも深い闇と、
 耳鳴りすら存在しない絶対の静寂だった。
 その世界で彼女が腕の上に広げていく刺激のリズムは、
 独房に唯一ある窓のようなものだった。〟


しかし、そんなかすかな幸せも、長続きはしない。
回復の見込みがない〝自分〟が、妻を縛る鎖であると感じたとき、
〝自分〟に選べる唯一の手段が、何ともいえない哀しさを醸し出す。
だが、その哀しさだけで終わらせない、
一種の清々しさを感じさせるラストにまで持ち込むところが、乙一なのだ。


他人の傷を自分に移動させる不思議な能力を持った少年を描く「傷」も印象的だ。
親から見捨てられた〝いらない子〟たちの、
切なる思いが不条理にも裏切られる、その瞬間の描写は、あまりに哀しい。
だが、それを乗り越えて、〝いらない子〟たちは、成長していく。
予想を裏切る意外なラストにも、深い余韻が残る作品だ。


内気で話し下手な少女の〝脳内携帯電話〟が、
映画「バクダッド・カフェ」の優しいメロディを奏でる「Calling You」もいい。
時間と空間を隔ててつながる、
不思議な携帯電話がつなぐ2人のドラマ、そして粋なひねり。
まさに短編の名手、といいたくなってしまう。


奪うことも逃げることもできなくなったドジな泥棒を描く、
手を握る泥棒の物語」も、思わずニヤリとさせられてしまった。
壁一枚をはさんで対峙する、ドジな泥棒と女性のやりとり、そしてひねりが、
何ともおかしく、ちょっとキュンときてしまう、心地のいい作品だ。


どの作品も、読みやすいが、
読み流すにはあまりにもったいない味わいに満ちた、短編ばかり。
読んでよかった、と素直に思える1冊だった。


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