伊井直人「青猫家族輾転録」

mike-cat2006-06-09



読売の書評で川上弘美が絶賛していた。
〝たくさん喋りたいことがあるのです。〟
〝だいぶん興奮しましたね。
 興奮させる、小説だったのですよ。〟
さまざまな痛みと、それとともに生きる人々を、
非常に深い奥行きで描き出す、傑作らしい。
伊井直人には、いままでまったく縁はなかったが、
こんなことを言われて、読み逃すわけにはいかない。


〝僕は50歳。色々あったけど、
 「失われた10年」と呼ばれた1990年代を、何とか僕なりに乗り越えた−。〟
〝暖かくて新鮮な大人の小説。〟


五十一歳になる〝僕〟矢嶋のもとに、
友人の桃ちゃん(40代半ば)から連絡が入る。
憤慨している桃ちゃんが伝えたのは、元夫、荻田のガンの報せ。
それはかつて〝僕〟を裏切り、窮地に立たせた友人でもあった。
失われた十年」に、人生の苦境に立たされた〝僕〟、
高校から進んだ私立でいじめに遭い、〝不良化〟してしまった娘の涼、
そして、三十九歳でこの世を去った忘れ得ぬ叔父の思い出。
三つの思い出を絡み合わせ、描かれていく家族の物語−。


作品は〝僕〟から、いまは亡き叔父へ向けて書かれている。
〝僕は十七歳でも二十歳でも、
 また今の世の中ではまだ成人前だという説もある三十歳ですらなく、
 だれも美しいとはいわないし、なりたくてなった人間は滅多にいないという
 五十歳もうかうかと通り過ぎて、現在五十一歳の男〟が、
いまの年齢にふさわしい語りの文体がないことを嘆きつつ、物語は始まる。


死を目前にした仇敵、荻田の様子を差し挟み、さまざまな回想が入り交じる。
荻田と桃ちゃん夫妻との、愛想入り交じる思い出、
叔父が見守っていた、少年時代の恋の行方、そして叔父の果たせなかった恋の話、
娘が抱えた苦悩、そして喜びと苦労がない交ぜになった出来事…
そのどれもが、切なく、苦く、そしてほのかな甘みを伴って語られる。
思いは擦れ違い、気持ちは割り切れないままに、受容を余儀なくされる。
その独特の味わいは、型にはまらない深い感情描写となっている。


タイトルの「青猫」は萩原朔太郎の詩からの引用だ。
「この美しい都会を愛するということはよいことだ
 この美しい都会の建築を愛することはよいことだ」
人生の岐路に立った娘、涼が描く青い猫を見た〝僕〟が詩の冒頭を暗踊する。
それを受け、娘が詩を読み上げる。
「ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
 ただ一疋の青い猫のかげだ
 かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
 われの求めてやまざる幸福の青い影だ。」
ここで、〝僕〟ははたと考え込んでしまうのだ。
〝なにを求めてここまで来たのだろうか〟


答えは最後まで得ることはできない。
人生は輾転としていくのみだ。そう、まるで〝LIKE A ROLLING STONE〟。
だが、それこそが人生であるかもしれないし、
いつまで経っても、まだ先はあるのだ。
事実関係だけを並べていけば、ハッピーエンドとはいえない結末にも関わらず、
読後感は不思議な爽快感というか、幸福感に包まれているのだ。


叔父が不倫相手の夫に挑まれた〝ゲーム〟も、
ちょっとオヤジ臭は感じられるが、なかなか興味深い。
〝僕〟が〝真っ黒な霧を胸の内いっぱい無理に吹き込まれた〟と振り返る、
その後味は、何とも言えない重さと苦味に満ちている。


というわけで、独特な風合いで、とことん読ませるこの小説。
なるほど、川上弘美が絶賛するのも、つくづく納得できるような気がする。
少なくとも一読の価値はある小説、というのは間違いないだろう。
しかし、青猫ってのはけっこう気持ち悪いな、と、
横で惰眠を貪る三毛猫を見つめ、変な想像をしてみるのだった。


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