あさのあつこ「弥勒の月 (文芸)」

mike-cat2006-05-19



〝闇を歩く男に女が与えたのは、愛。
 注目の物語作家が紡ぐ、哀感と憐憫の時代長編〟
〝闇の道を惑いながら歩く男たちの葛藤が炙り出す真実とは?〟
あの「バッテリー (教育画劇の創作文学)」の作者による最新作は、何と時代小説だ。


本所相生町の橋のたもとで、女の溺死体が見つかった。
小間物問屋「遠野屋」の若おかみ、おりん。
調べに当たるのは北定町廻り同心の木暮信次郎と、
その父、右衛門の代から岡っ引きを務める伊佐治。
単なる身投げかと思われた事件に、遠野屋の主人、清之介が異を唱える。
「今一度の五反作をお願いしとうございます」
その冷静すぎる立ち居振る舞いに違和感を覚えた信次郎は、清之介の周辺を探る。
一方、ひととしての温かみに欠ける信次郎に、伊佐治は共感を持てずにいた。
〝闇〟を抱えるふたりの男、そして「弥勒」と呼ばれた女−
哀しみに満ちた過去を携え、事件は意外な方向へと展開していく。


闇を抱えるふたりの男、が何とも哀しい。
その哀切は主に、この物語の語り手的な役割を担う、伊佐治の視線から描かれる。
まずは同心の信次郎だ。
父・右衛門の寂しい死をきっかけに、虚無感に苛まれている。
薄汚れたケチな盗っ人の腕を、表情の一つも変えずにへし折る姿。
そんな信次郎の姿に、思わず伊佐治は憤りを覚える。
〝無表情で佇む男は、罪を憎んでいるのではなく、人を厭うている〟
このまま、信次郎のもとで岡っ引きを務められるのか、の思いが胸に巣くう。


遠野屋の主人、清之介も哀しい男だ。
まこと「弥勒」であった妻、おりんの死に際し、なぜか感情の動きが見えてこない。
数々の愁嘆場を見届けてきた伊佐治が、その目を疑う。
〝目の玉だけを動かして、遠野屋の横顔を窺う。
 驚愕も悲哀も他のどんな感情も読み取れない。
 あまりのことに我を忘れているわけでもない。
 魂の抜け落ちた目ではなかった。〟
そんな遠野屋の隠された過去に、もう1人の闇を抱えた男、信次郎が食いついていく。


哀しい闇にとらわれた男たちの生き様は、どこまでも哀しみにあふれている。
そのふたりを取り巻く哀感、憐憫は、読む者をもまた、深い悲しみの底に誘っていく。
だが、あふれる哀しみに対し、次第に無感情になっていく二人に対し、
伊佐治の視線はあくまでも人間の温かみを失わない。
思わず涙があふれそうになった場面がある。
事件の目撃者だった夜鷹蕎麦屋の弥助の死に際し、
何も感情を交えず、まるで世間話のように話し込む男たちを、伊佐治が一喝する。
「人の生き死にを算盤はじいて算段するみてえに、
 しゃらしゃらと口にするもんじゃねえ」


〝弥助は、夜商いの蕎麦屋に過ぎない。
 一杯十六文の蕎麦を夜の中で売る。それだけの人間だ。
 それでも尊い
 おりんのことで聞き込みをした時、松井町の曖昧宿の女が
 「あの爺さんの蕎麦を食べるのが楽しみでさ」そう言ってにんまり笑った。
 白粉を塗ってさえ隠し切れない小皺と荒れた肌の目立つ女だった。
 奈落に落ちて身を売っている女をあんなふうに笑わせることが、あんたたちにできるのかい〟
 

耐えられないほどの哀しみの中で、どう人としての矜持を保っていくのか。
そんな問い掛けは、小説のクライマックスの中で、さらに強烈にたたみかけられる。
ともすれば、哀切が勝ちすぎているような印象すら受ける、哀しい秘密…
そんな中で、男たちは何を見つけていくのか、その物語に思わずくぎづけになる。


そして迎える結末は、あくまでも苦い。
正直なところ、あまりに救いがない、という気もする。
失われた人は戻ってこないし、決して癒えることのない傷は残っている。
だが、それでも男たちは「弥勒」の微笑みを思い返し、もう一度人生に向き直る。
儚いまでの希望を未来に託し、男たちはもう一度歩き出すのだ。


いままであさのあつこは「ガールズ・ブルー (teens’ best selections)」しか読んだことなかったのだが、
正直いって、こんなに〝いい〟とは思っていなかった。
手持ちの本が切れた出張先の鳴門の小さい本屋で、
読みたい本がなかなか見つからず、ようやく選んだのがこの1冊だった。
さほど期待はしていなかったのに、読み始めたら、もう止まらなかった。
何度も書くが、傑作と言うには、あまりに哀しすぎるきらいはある。
だが現代物なら、哀しすぎる話だが、時代物ならば許容範囲ではないか、とも思う。
あまりの哀しさに、途中嫌気がさすこともあるかもしれない。
だが、そこを何とか耐え、読み続ければ、この本の魅力が伝わってくる。
その哀しさにつぶされることのない、かすかな光が必ず深い余韻を残してくれるはずだ。

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