梅田ナビオTOHOプレックスで「グッドナイト&グッドラック」

mike-cat2006-05-18



コンフェッション」に続く、ジョージ・クルーニー監督第2作。
アカデミー賞では作品、監督、主演男優、脚本、撮影、美術の
6部門でノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビューでは作品賞と、
各方面から高い評価を得た、話題の新作だ。
主演はデービッド・ストラザーン(「スニーカーズ」「激流」「黙秘」)。
ルーニーも助演で(やや太り気味だが)いい味出している。


マッカーシズムの嵐が吹き荒れる50年代初頭。
赤狩りという名の魔女裁判に、誰もが口をつぐみ、
罪なき人を密告することでいわれなき糾弾の矛先から逃れる、そんな時代。
共和党のジョセフ・マッカーシー率いる上院議員非米活動委員会に盾ついた男がいた。
CBSのキャスター、エドワード・R・マローとプロデューサー、フレッド・フレンドリー。
TVジャーナリズムの可能性を切り開いたドキュメンタリー〝See It Now〟で、
マッカーシーのやり口に公然と異を唱えた、勇気あるジャーナリストたちの物語−。


映画は、マッカーシーとの対決から4年、
報道番組制作者協会のパーティーで幕を開け、そして幕を閉じる。
表彰の席でも、テレビ界の現状に痛烈な批判を展開するマロー。
「もし50年後か、100年後の歴史家が、今のテレビ番組を1週間分見たとする。
 彼らの目に映るのは、おそらく今の世にはびこる退廃と現実逃避と隔絶でしょう」
そして続けるのだ。
「テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠蔽している」
どんな立場においても、批判精神を忘れない、そのマローが立ち向かったのがマッカーシズムだ。


マッカーシズムというと、ロバート・デ・ニーロ主演の「真実の瞬間(とき)」が印象深い。
こちらの舞台はハリウッド、知人を貶める、虚偽の密告を強いられた映画人たちの戦いだった。
ちなみに原題は〝GUILTY BY SUSPICION〟
疑惑で有罪、つまり〝完全な立証がない限り、有罪にはならない〟 という、
推定無罪の原則すら無視した、とんでもない魔女裁判がまかり通った時代だった。


その支配を行う上で、何よりもの武器となるのは、恐怖。
皮肉なことに、敵対するはずの社会主義体制の監視社会と同様、
恐怖が人々の口をふさぎ、なすべき正義が闇の底へと葬り去られる世界だ。
その中で、恐怖と相対することが、どれだけ難しいか。
マローたちがマッカーシーを取り上げるに当たり、
製作者仲間の中で、過去の共産党への関与がある者がいないかを問う一場面がある。
相手に隙を与えないことが目的だったが、マローはこう指摘する。
「この部屋ですら、恐怖で支配されている」
本当に難しい時代だったことが、リアルに伝わってくる瞬間だ。


マッカーシー本人のニュース映像を生かすため、モノクロームで描かれる。
ダイアン・リーヴスによるメロウなジャズナンバーとともに映し出される世界は、
リアルにその時代を感じさせるような、良質のものに仕上がっている。
当時の風俗を思わせる、さまざまな描写が面白い。
誰もが煙草を蒸かしまくる場面に始まり、
進歩的だったはずのCBSで社内結婚禁止が決められていたり、という場面だ。


本格的な放送開始から10年にも満たないテレビ黎明期ならでは、の場面もある。
中立・公平な報道を期すため、キャスターは私見を交えずに、ニュースを伝える。
そもそも、中立・公平の概念そのものがあやふやだし、
キャスターや記者のバイアスがかかった報道であっても、
その立場さえ明確なら視聴者は判断できる、と考える現在の風潮とは一線を画している。
こうした部分もなかなか興味深い映画だったりする。


主演のデービッド・ストラザーンの演技からは、凄みすら伝わってくる。
あの一種独特の目つきの悪さ、が、この映画では権力への鋭い視線として、生きてくる。
CBSの会長、ウィリアム・ペイリーを演じるフランク・ランジェラ(「デーヴ」「ロリータ」)もいい。
マローたちを支えたい気持ちと、経営者としての揺れる心情が、グイグイと伝わってくる。
マロー右翼系の新聞に標的にされるジャーナリスト、ドン・ホレンベックには、
「世界一美しい死体」ローラの父、リーランド・パーマーのレイ・ワイズが配された。
こちらもマローのようにありたい、とする気持ちと、根本的な弱さがよく表現されている。
また、ほかにもジェフ・ダニエルズ(「グランド・ツアー」「スピード」)に、
ロバート・ダウニー・Jr(「チャーリー」、TVシリーズアリー・myラブ」)
パトリシア・クラークソン(「エデンより彼方に」)と、いい俳優が脇を固め、映画の質を高めている。


前述の通り、モノクロで描かれるその雰囲気も、ノスタルジックな魅力に溢れている。
撮影はロバート・エルスウィット、最近では「シリアナ」などを手がけている。
マグノリア」「パンチドランク・ラブポール・トーマス・アンダーソン作品に
「激流」「揺りかごを揺らす手」といったカーティス・ハンソン作品など、
映像には一家言ある監督たちに重用されている、才人である。


9・11をきっかけに、集団ヒステリーとなったアメリカの状況を考えると、
この映画の持つ意味は、計り知れないほど大きいといっていいだろう。
イラク戦争をめぐっては、ブッシュ大統領を中心とした利権集団が、
メディアをも取り込み、強権的な言論封殺を行ったことが記憶に新しい。
その状況でこの映画をあえて作るということは、
ある意味マローの歩んだ道を再び歩いている、という見方もできるだろう。
ルーニーにとっては、ニュースキャスターだった父に捧げる映画でもあったはずだ。


また、教育基本法を取っ掛かりに、
愛国心〟を法制化しようとするどこかの国においても、
この映画の伝えるメッセージは、とても意義深いものとなるはずだ。
愛国心=為政者に対する忠誠度、というすり替えは、
マッカーシーが行ってきた赤狩りと、どこか相通じる、卑しく曲がったものを感じる。
もしかしたら、マローたちのように、立ち上がるべき時が近づいているのかも知れない。


観終わって、思わずため息が漏れるような映画である。
メッセージ性と、芸術性、そして娯楽性のすべてを兼ね備えた良品だ。
監督・ジョージ・クルーニーの実力に、またも打ちのめされた。
そして、マローのあの言葉「Good Night ,and Good Luck」。
深い余韻とともに、忘れられない響きが、いつまでも耳に残るのだった。