二階堂正宏「ムーさん」

mike-cat2006-04-22


以前から気になっていた、
プ~ねこ (アフタヌーンKC) プ~ねこ(2) (アフタヌーンKC)
プ~ねこ (アフタヌーンKC)」「プ~ねこ(2) (アフタヌーンKC)」とともに購入。
こちらはこちらでにやけながら「かわいい♪」と、
タニタにやけながら(変態?)読んだのだが、
それはともかく「ムーさん」なのである。


〝エロかユーモアか? 笑うべきか呆れるべきか?〟
〝巨匠ニカイドウがたどりついたナンセンス漫画の極北
 「小説新潮」連載をさらに過激に全面改稿!〟
このテの惹句というやつは、まあたいていオーバーに書いてあるのが常で、
ナンセンスの極北、と言われても、過去に極北も多数あるジャンルだし、
いったいどんなことになっているのかな…、と思って手に取った。


この作家はまったくの未読だったのだが、なかなかの〝大物〟らしい。
昭和53年に「二階堂正宏展」で文春漫画賞
平成4年に「極楽町一丁目 (新潮コミック)日本漫画家協会賞大賞を受賞、とのこと。
ウィキペディアによれば、双葉社漫画アクション」の編集者を経て漫画家になったとか。
そうか、ガロ系の作家ではないのか。そちらを期待していたのに…


で、実際読んでみると、まあナンセンスというより脱力系だ。
ユルい。限りなくユルい。
オチはほとんどどれも同じ、と言い切っても構わないはずだ。
〝ムーさん〟なる中年男が、何の脈絡もなく道行く、というかそこらの女性とナニをする。
安直にして、そのまんまの行為が終わると、
「短小」だの「早漏」だのの言葉が投げかけられ、ショボンとするというペーソスが漂う。


読んでいるとかなり情けない感じなのだが、
これがたてつづけに投げかけられると、微妙に様相が変わってくる。
そこには、あのダメ芸人、村上ショージの「ドゥーン」なんかと同じ臭いがしてくる。
「しょうもない…」という苦笑が、しつこい反復によって笑いに昇華される感じ。
決してほめるつもりでもないが、脱力系も繰り返されると、時にはおかしくなるのだ。


その同じようなオチの反復に時折挿入される、
〝著者に訊く〟という一文が、そこに絶妙のスパイスを加えている。
背表紙側のオビにもいくつか載せられているが、こんな感じである。


−あんまりな漫画ですね。よく「小説新潮」は連載を続けていますね。
「誰も読んでないんじゃないですか」
−今まで、読者から抗議や苦情が来たこと、ないんですか。
「来ても読みません。出してもムダです」
−二階堂さんは、日常、こんなことばかり考えているんですか。
「他に考えることないもんですから」
−ご自分であらためて読んでみて、どうですか。
「私はエロ漫画家ではありません。誤解しないで下さい」


何だか、ダメな連載漫画家を見守る担当者のような気分になってくる。
いったいこの人は、何を考えてこんな連載を続けているのか。
(むろん、ナニのことを考えているんだ、と言われるだろうけど)
しかし、その何ともダメダメな気分が、微妙に心地よさを誘発するのも確かなのだ。


読む前は、蛭子能収の漫画みたいな感じも想像していた。
だが、モチーフこそやや似通ってはいても、
あのつげ義春をルーツに持つという、不条理漫画とは明確に違う。
蛭子能収の、あの不条理の中で強烈に自己主張する黒い衝動や、
いわゆるタレント〝エビスさん〟のヘラヘラ笑いに見え隠れする強烈なエゴなんかと比べ、
二階堂正宏の漫画は、一応〝普通〟の領域をはみ出していない。


だからこそ安心して読める部分もあるが、
あの蛭子能収のヤバさ、みたいなノリを期待するとだいぶ肩透かしでもある。
業の深さが感じられない、というところだろうか。
まあ、誰もがつげ義春的な世界を期待して漫画を読むわけではないから、
その〝軽さ〟もある意味ではいいのかもしれない。
ただ、つげ義春の〝あの世界〟に一度はまった僕としては、
やっぱり物足りなさも感じずにいられないのだった。

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