車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」

mike-cat2006-04-13



平安寿子豊島ミホの新作を差し置き、
無性に読みたくなってしまったので、貪るように再読する。
というか、もう読むのは4、5度目のはずだが、
何度読んでもグイグイと引き込まれる、不思議な作品だ。
車谷長吉の作品は最後の私小説、と称される。
この作品も、いちおう直木賞受賞作、なのだが、
受賞作の中でも(たぶん)かなりの異彩を放っていると思う。
「どついたるねん」を製作した荒戸源治郎がメガホンを握り、
大西滝次郎寺島しのぶ主演で作られた映画も、すさまじかった。
映画の方は、多少構成に難ありだが、
この「赤目四十八瀧心中未遂」という作品自体は、
生涯でも忘れられない小説のひとつとなっている。


舞台は昭和50年代の尼崎・出屋敷。
〝私は来る日も来る日も、
 阪神電車の出屋敷近くの、ブリキの雨樋が錆びついた町で、
 焼鳥屋で使うモツ肉や鳥肉の串刺しをして、口を糊していた。
 東京での二年余の失業生活をふくめれば、
 漂流物の生活に日を経るようになって六年目のことである〟
迦陵頻伽の刺青が背中一面に彫られたアヤちゃん、
進駐軍相手にパンパンをしていたという焼鳥屋の女主人、
同じアパートに住む、顔面蒼白の彫物師…
そして、友を捨て、家族を捨て、職を捨て、流れ流れた〝私〟。
「温度のない町。」、尼崎で、それぞれの人生が交錯する−。


この小説を語る上で、欠かせないのは、やはり尼崎という土地柄だ。
独特の愛着を込め「アマ」とも呼ばれる、その街の「温度のない。」一角。
職を求めて流れ込んできた、流人たちの掃寄せ場だ。
駅前には仕事にあぶれた〝働き奴〟がたむろす、出屋敷。
〝昼間から道端で車座になって酒を呑み、
 果ては酔い潰れ、歌を歌い、喧嘩をし、垢に汚れ、
 中にはゴム長靴の足を投げ出して寝ている者も〟いる。
〝「温度のない。」悲しみ〟がじかに感じられる、そんな町なのである。


いまでも尼崎周辺や、大阪のディープな辺りに足を伸ばすと、
そういった名残を感じることがあるのだが、何しろ昭和50年代だ。
言葉は悪いが、想像を絶する〝強烈〟な土地であることは間違いない。
二十代の終わりで身を持ち崩し、無一物になった〝私〟が、
その日暮らしの流浪の末にたどり着くには、これほどふさわしい場所はない。


だが、そんな町においても、〝私〟はやはり異物でしかない。
病死した牛豚のモツを串に刺すだけの、投げやりな生活ぶりは、
〝アマ〟の人々の目にすら異形のものとして映し出される。
それでも、どん底の〝ある意味〟研ぎ澄まされた生活の中で、
自らが抱いていた〝社会の何か〟への嫌悪感が洗い出される。
無意識の世界に潜んでいた、〝私〟の原罪、〝私〟の罪悪感だ。


美しくも、どこかどす黒い業の深さを感じさせる、アヤちゃんもいい。
映画では寺島しのぶが演じていたが、小説ではもう少し豊満な感じらしい。
そのアヤちゃんとの行為の中には、
暗い渇望とねっとりとした執着、そして薄ら寒いのになぜか火傷しそうな情念が感じられる。
タイトルに記された、あるクライマックスの場面。
「うちを連れて逃げて。」「この世の外へ。」と言う
アヤちゃんとの逃避行は、どこまでも美しく、そして悲しい。
それは赤目四十八瀧の幻想的な描写と相まって、忘れがたい余韻を残す。


小説で語られる、言葉遣いも強烈な印象を感じさせる。
たとえば、一膳飯屋に振られるルビは「こじきめしや」だ。
最近ホームレスとかいう、まやかしの言葉で語られる乞食も、ルビは「こつじき」。
蛇は「くちなわ」だし、女陰は「ほと」、売春婦には「パンパン」である。


言葉が飼い慣らされ、役所化し、政治的に〝正しく〟なった現在、
それらの生々しい言葉は、差別的な思想を含みつつも、
読む者のこころに深く突き刺さってくる。
別に差別を助長する気はないが、この車谷長吉の文章には、
本来の意味としての〝言葉〟が、ありありと姿を見せているような気がしてならない。


白痴化した新聞が、ヘンな仮名交じり漢字を交え、
ますます大きな字で、ただただ当たり障りのない、文章を垂れ流し、
言葉を無力化させている現在に於いて、この猥雑なパワーはただただ新鮮だ。
とはいっても、別段古くさい表現ばかりで、読みにくい小説というわけではない。
多分に観念的な部分も含みつつも、その文章はすらすらとこころに染み込む。
そこが、車谷長吉の小説の魅力でもあるのだ。


車谷作品は、初めて読んだ「忌中」もよかったが、
やはりどれかひとつを選ぶなら、この「赤目四十八瀧心中未遂」だろうか。
どの作品にも、言葉を紡ぎ出すという営みへの嫌悪感や、
その業の深さ、その意味を追求したような、血まみれの言葉がある。
とても2冊、3冊続けて読めるような、手軽な小説ではないが、
一読すれば、忘れられない一冊ができること、必至である。

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