ミッシェル・フェイバー「天使の渇き」

mike-cat2006-03-20



〝わたしの名はシュガー
  19歳の娼婦は夜な夜な、男への復しゅう譚をつづる〟
〝「L.A.コンフィデンシャル」のカーティス・ハンソン監督が映画化〟
このオビだけでも、すっかりやられてしまった。
チャールズ・パリサーの大作「五輪の薔薇〈上〉
五輪の薔薇〈下〉」と並ぶ、という
圧倒的なボリュームも、むしろ大きな魅力(重いのは問題だが…)。
期待に胸を、二段組み800ページの大作に取り掛かる。


19世紀末、ヴィクトリア朝のロンドン。
社会の最底辺に位置する娼館で、シュガーは客を取る。
望まれればどんなことでもする19歳の少女は、
仕事を終えると、夜が更けるまで、ある小説を書き綴っていた。
それは主人公シュガーによって、客たちが惨殺される復讐の物語。
しかしある日、香水会社の跡取りウィリアムとの出逢いが、
シュガーの人生を劇的に変えることになる−。


オビだけ読むと、当時の時代風俗を思わせるシュガーの客と、
客とのそれの場面、そしてシュガーが書き綴る復讐譚とが混ざり合っていく、
切り裂きジャック」を思わせるような、ホラー小説かな、という感じだろう。
事実、それを期待して読み始めた面もあるのだが、
その期待はいい意味でも、悪い意味でも大きく裏切られる。
いい意味、というのは、娼婦シュガーの数奇な運命を軸に、
ヴィクトリア朝のロンドンを、いままでにない角度から描いた意欲作である点。
悪い意味、というのは、まがまがしいポルノ描写とスプラッタ描写の、
グチャグチャエログロ小説、というゲスな部分がほとんどない点だろうか。
期待していた方向には一向に話が進まず、
物語の目指す方向が、最初から最後までよく見えないまま、
その作品世界に引きずり込まれる、というまことに不思議な作品だ。


作品の最大の魅力は、いい意味での裏切り、と書いた、
ヴィクトリア朝ロンドンの裏町最下層の風俗描写に尽きるだろう。
シュガーら娼婦たちが最初に登場するのは、セント・ジャイルズ地区のチャーチ・レイン。
大英博物館にほど近い場所にありながら、そこは社会のどん底どん底
〝猫ですら肉が足りずに痩せこけて眼をくぼませている街、
 労務者と自称する男が労務につく様子がまるでなく、
 洗濯女と呼ばれる女たちがその名に反してめったに洗濯をしない街だ。
 慈善家は善をなしえず、胸に絶望を抱え、靴底に糞便をつけて、とぼとぼ帰る。〟
そんな絶望に満ちた街で、シュガーたち娼婦は生きている。


胸も小さく、手はカサカサ、しかし知性に長けたシュガーのウリは、
客に求められれば、どんなことでも応じること。
最下層の娼婦しか許さないことを、子どものように無邪気な顔でこなす。
〝処女のような娘が汚物の洪水に呑み込まれながらも、
 薔薇のように香しく身をもたげ、子犬のように愛らしい眼でこちらを見つめて、
 罪に赦免を与えるような純白の微笑みを輝かせる〟
そんな娼婦が夜な夜な、スプラッタホラー顔負けの小説を書いているのだから、
そのプロットだけでもハリウッドが飛び付く理由はよくわかる。


しかし、そんな横軸の風俗描写が読む者を引きつける一方で、
物語の方は香水会社の跡取り、ウィリアム・ラッカムの登場以降、
不思議な方向へただただねじれていくばかりだ。
なぜかシュガーの立身出世物語のような展開を見せるかと思えば、
神の道に進みたいけど、煩悩から解き放たれず、
うじうじと悩ましい日々を送っているウィリアムの兄ヘンリーや、
脳に腫瘍を抱え、精神に異常をきたしているウィリアムの妻アグネスが登場し、
それぞれの苦悩が、多くの枚数を割かれて描写されていく。
ウィリアムの事業の発展なんかにシュガーが寄与したりして、
いったいこの物語は何を描こうとしているのか、全然見えなくなるのだ。


いつか物語の方向性が見えると信じて読み続けても、
物語はよじれたままで蛇行を続け、実のところ、800数ページを読み終えても、
結局は「何なんだ!」状態で話は終わってしまったりする。
だいたいが最初の濡れ場が100ページを過ぎないと出てこない、というのも、
このオビを読んで期待した向きにとっては、かなりの肩透かしなのだが、
読み終えても大きく肩透かし、というのが何とも人を喰った小説なのだ。


しかし、そんな大きな欠陥を抱えつつも、
この小説は群を抜いて面白かったりするのだから、つくづく不思議だ。
「五輪の薔薇」より面白いか、と言われたら、完成度の面からも悩ましい面もあるが、
読書の愉悦、を感じさせる要素がそう劣るわけでもない。
海外ものならではの、独特の冗長さが好きな読者には、
もうたまらない味わいじゃないかな、と思ったりもするのである。


映画化されたら、だいぶ趣も変わった作品に仕上がるのだろうと思う。
小説ではやや曖昧になった、シュガーの人生、キャラクター、
そして復讐譚に焦点が当てられれば、かなり興味深い作品となりそうだ。
解説によればシュガー役をキルステン・ダンスト
(「スパイダーマン」「チアーズ!」)が、演じる可能性があるとかないとか…
好みの分かれる女優だけに、難しい面もあるかもしれないが、
とんでもない作品が生まれる期待感も、何となく感じられる。
まずは楽しみにして待ちたい。キルステンのヌードも込みで、ね…

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