朱川湊人「わくらば日記」

mike-cat2006-02-08



〝懐かしくてやるせない、五つの物語〟
毎度お馴染み、朱川湊人による、ノスタルジックな〝すこし不思議〟話だ。
手慣れた設定、手慣れた手法ではあるが、そこはさすがの朱川湊人
何だか読んだような気はさせても、決して退屈はさせない。
そして、ノスタルジーに切なさを味つけしたそのドラマは、
わかっていても、ほんのり胸を焦がし、瞳の奥に熱いうずきをもたらす。


舞台は昭和30年代の下町。
千住のお化け煙突を望む、足立区梅田で、母との3人暮らしを営む姉妹。
姉の名前は鈴音(りんね)、妹の名前は和歌子。
〝私〟こと和歌子は平凡な日本人顔だったが、
鈴音はまるで、ロシアの妖精といった風貌の美少女。
そして、姉にはある不思議な力があった。
姉は、人と物の〝記憶〟を見ることができるのだった。
若くして逝った姉を偲びながら、〝私〟がかつての事件を回想する−。


つまり、ひとの思い出や、モノや場所にまつわる残像、みたいなものが見えるらしい。
いわゆる超能力。SF的に考えちゃうと、ずいぶん大雑把な気はするが、
この小説においては、あくまでそれは舞台装置に過ぎないので、いいことにする。
むしろ、ドラマの可能性を最大限に広げる設定ということになる。
〝私〟がその能力を語る場面だ。
〝誰もが心の奥底にしまっているアルバムを、
 姉さまは自由自在に開くことができる……ということです。
 しかも心に持っている人間ばかりでなく、
 相手が広い場所や小さな物になってもおなじことができるというのですから、
 まさしく無敵の力と言わざるを得ません。〟


だが、無敵と言っても、裏はあったりする。
この力、使えば使うほど、精神的にも、肉体的にも消耗する。
もともと病弱な姉は、この力によって、寿命すら削っていた可能性もあるのだ。
そしてもうひとつ、どんなに優れた能力であっても、
必ずしも見たいものだけが見えるというわけではない。
人のこころが抱える秘密には、時に陰惨な風景もある。
それすらも、姉の目には見えてしまうのだ。
たとえ服を透視する能力があったとしても、
見えるのはきれいな女のコの裸ばかりではない、
オバはんどころかオヤジの裸まで目に入らざるを得ないのと一緒だ。違うか…


というわけで、お話はその能力で何かを解決する姉の姿を颯爽と描くのではなく、
人の抱える苦しみを描き、その苦しみに共鳴する姉の苦しみが描かれる。
ノスタルジーとともに描かれる昭和30年代は、古き良き時代でも、何でもない。
貧富の差は大きく、差別は横行し、何より人の命が安い時代。
その頃だからこそ美しく見えたものもある一方で、
社会の底で苦しむ人たちは、現在以上に顧みられることがなかった時代だ。
そんな時代において、見えないものが見える能力は、果たして人を幸せにするのか…
あげくに、警察にその能力を買われてしまうのだから、もうお手上げだ。
現在とはまた違う、荒んだ心の生み出した光景を、姉は目にする。
病弱な体だけではなく、余分なものまで背負わされながら、
それでもその運命を受け容れる、姉の気丈な姿があまりに切ないのだ。


ただ、この力はあまりに繊細な姉だったからこそ、切なさにも転じるのだが、
これ、物事に動じない、図太い神経の持ち主だったら、と考えると、
また全然違うドラマになってしまうな、などと考えたりもする。
たとえば、僕がこんな力を持っていたら、間違いなく悪用すること間違いなしだ。
そんなこと、自慢げにいってもしかたがないのだが…
ただ、その上でそれなりに意義を感じることには、力を使いもするだろう。
たぶん、それなりにこころが荒むかも知れないが、
この作品の姉よりは、けっこう平気だと思う。
もちろん、警察犬よろしくこき使われる可能性もあるだろうが…


そんなわけで、まるで〝ドラえもんの道具があったら…〟みたいな、
単なる妄想に発展してしまったのだが、長くなりそうなので、これにておしまい。
そうそう、肝腎の本の評価。
朱川湊人の過去の作品と比べても、遜色ないと思う。
もちろん、個人的には「花まんま」の持つペーソスには及ばないかな、という印象。
いや、直木賞受賞作だからってことではないのだが、複雑な味わいでは、あちらが上だと思う。
もちろん、この作品の方が昭和30年代のよさ、悪さをフェアに描いた気もする。
ここらへんはたぶん好みの問題もあるので、
とりあえず、朱川湊人の作品が好きなヒトは必読ってことでまとめる。
全然まとまっていないのは承知だが、まあそういうことで… お粗末。


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