村上春樹「海辺のカフカ (上) (新潮文庫)」「海辺のカフカ (下) (新潮文庫)」

mike-cat2006-02-03



夢中で読んでしまった。
ページをめくるのがもどかしいほど、先を読み進めたくなり、
終盤にさしかかると、読み終えるのが名残惜しくて、ページをめくる手が重くなる。
正直。もっと文学寄りの作品かと思っていたのだが、
純然たるエンタテイメントとしても、素直に楽しめる作品だった。
スーパーナチュラルな要素、商品名の明示などに見られる価値観の投影などなど、
スティーヴン・キングの「IT」や、ロバート・マキャモンの「少年時代」など、
いわゆるモダンホラーの傑作にも通じる、壮大な物語だったと思う。
いや、乱暴な例えは承知の上なので、あくまで〝通じる〟ということでご容赦を。


「田村カフカ」を名乗る〝僕〟は、中野区在住の15歳。
「世界でいちばんタフな15歳の少年になる」との決意を胸に、
ギリシャ神話になぞらえた父の言葉を振り払うべく、〝僕〟は家を出る。
ナカタさんは、同じく中野区在住の老人。
戦争中に起こったある事件をきっかけに、記憶とほとんどの生活能力を失った。
たまに食べる大好物のウナギを楽しみに、ネコ探しで時間を潰すナカタさんが、
記憶の代わりに得た能力は、ネコと話すことができる能力だった。
ある日起こった、謎のネコ失踪事件をきっかけに、二人の人生が交わる。
それは、大きなうねりが始まる瞬間だった−。


ざっとあらすじを書こうにも、なかなかまとめきれない。
たった一文に集約すれば「少年の成長物語」ではあるのだが、それではつまらない。
さまざまな出逢い、事件、現象を通じて、
少年のアイデンティティが構築、もしくは再構築されていく、という意味では、
まさしく「成長物語」ではあるのだが、
これだけさまざまな要素や、ものごとの価値観が織り込まれた物語を、
単にそのひとことで片付けるのは、あまりに単純化が過ぎるというものだ。


文中にも頻出する〝メタファー〟も数限りなく織り込まれた作品だ。
かといって、文学的な読み解き方を強引に求めるものでもない。
文学的に読み解いていっても楽しめるし、
そのことそのものに意味を感じ、受け入れる読み方でも、違った楽しみが味わえる。
そういった自由度の高さというか、懐の広さも数多い魅力のひとつだ。
単なる成長物語、に終わらせない、芳潤な味つけでもあると思う。
たとえば、ナカタさんの影。
人の半分の濃さしかない、淡い影は「奪われた人生」を意味する部分もあるのだろう。
文学的素養の低い僕には、とりあえずそのくらいが思いつくぐらいだが、
読み解いていけば、ほかにもさまざまな読み方があるのだろうと思う。
だが、その影の淡さ、という事象を、
そのことそのままに受け入れるだけでも、味わいの深さに変わりはないのだ。


キングとの対比で触れた、モノの名前を商品名まで明快に示すことで、
ある時は作者の、ある時は登場人物たちの、
ある時は作品世界そのものの価値観が、くっきりと投影される。
それは、数多く引用される本であるとか、場面場面を彩る音楽であるとかも同じ。
もちろん、それそのものは単なる舞台装置でもある一方、
そのモノが持つ背景が作品世界に、重要な意味を与える役目も果たすのだ。
多少、価値観を語る言葉が過ぎて、説教くさくなる部分は見受けられるが、
それも物語全体の持つ魅力から考えれば、まことにささいな瑕疵でしかない。


そうした多くの要素を含む物語をつづる、
村上春樹の語り口は軽やかそのものでありながら、
どこか猥雑なものを含んでいたりして、豊穣な海を思わせるエネルギッシュさに溢れている。
たとえば、ある過去にとどまったまま生きる佐伯さんの登場場面。
洋服や髪の描写に続いて、口に浮かべる淡い微笑みが描写される。
〝うまく言えないのだけど、どことなく完結したような感じのする微笑みだ。
 それは〝僕〟に小さな日溜まりを思い起こさせる。
 ある種の奥まった場所にしか生まれるはずのない、
 とくべつなかたちをした日溜まりのようなもの。
 僕が住んでいた野方の家の庭にもそういう場所があり、
 そういう日溜まりがあった。僕は子どものころからその日溜まりが好きだった〟
これはあくまで一例だが、
こんなに、〝伝わってくる文章〟というものには、なかなか出会えない。
読んでいて感じるのは、日本の小説というより、海外の小説の雰囲気だ。
翻訳家として、海外の小説の原版に親しんでいる、
村上春樹だからこその独特の表現、といったらいいのだろうか。
だから、スタイルだけではない、本質的な部分で〝海外〟の匂いがする。


物語がたどった結果も、切なさや哀しみ、成長に解放、自覚と受容などなど…
さまざまな要素を内包し、複雑で印象深い余韻を残す。
そして、物語のその後に、果てしない想像を膨らませてくれるのは、
〝僕〟のことだけではない。
ホシノさんであったり、大島さんであったり、さくらさんであったり…
ある意味では、佐伯さんやナカタさんも含めて、いろいろな想いがめぐる。


そして、とても豊かな時間を過ごした実感を胸に、本を閉じる。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と比べ、
多少は軽さも感じるが、これもまた忘れ得ぬ作品になりそうだ。
これでもまだ村上春樹作品は3冊目。
まだまだ、村上春樹、という宝物殿の中には、何かが詰まっている。
もちろん、「これはちょっと…」というのもあるだろうが、それもまた一興だろう。
今まで読んでいなかったからこそ味わえる、この贅沢な状況を
(まさに結果オーライの世界だが…)しばし、楽しんでみることにしたい。