村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」

mike-cat2006-01-31



オビには〝村上春樹、80年代の記念碑的長編!〟とある。
新潮文庫版がどうも読みにくそうなので、ハードカバーにしてみた。
新装版の改装版、だそうだ。
とても強い思い入れがこもった装丁に仕上がっていると思う。


村上春樹2冊目、となる。
ずっと以前、id:franny_cotwさんに「読むならコレ!」と、
お勧めいただいていたのに、なかなか時間がかかってしまった。
何となく、とっつきにくいような気がしていたのだが、
つくづく本というものは、実際読み始めてみないとわからない。
読み始めたら、あっという間に読み進んでしまった。


二つの世界の物語が、微妙なリンクを保ちながら、交互に進行していく。
計算士である〝私〟の属する〝組織(システム)〟と
記号士を擁する〝工場(ファクトリー)〟がしのぎを削る、ハードボイルド・ワンダーランド。
〝私〟は地下深くに潜むある老博士から、仕事の依頼を受ける。
それは、〝組織〟と〝工場〟の力の均衡を崩しかねない、重要な機密。
謎の一角獣の頭骨とともに、〝私〟は大きなトラブルに巻き込まれていく。


そこは、大きな壁に囲まれた〝世界の終り〟という街。
金色の獣たちが行き交うこの街にやってきた〝私〟は、夢読みの仕事に就く。
門番に影を切り離され、街に閉じ込められた〝私〟は、
毎日夕方から、図書館で夢読みを始める。傍らには心を失った少女。
別人格となった〝私〟の影が、世界の終りからの脱出をうながすが−。
二つの世界がつながった時、壮大な物語は大きな転換点を迎える。


どんな言葉を使って、この物語を表現すればいいのだろうか。
あまりに、この物語は圧倒的だ。
幻想的で、壮大な世界観でありながら、内面世界をとても内省的に描いている。
ストーリーは時に荒唐無稽ですらあるのに、どこかリアルさに満ちている。
とんでもない状況に巻き込まれながらも、
どこか冷静な視点でさまざまな情景描写を重ねていく、〝ハードボイルド〜〟の〝私〟。
過去の記憶を失い、厳しい環境に放り込まれながらも、
〝世界の終り〟に、なぜか一種の安らぎを覚えていく〝私〟。


ほぼ現実世界の〝ハードボイルド〜〟には音楽が満ちているのに、
〝世界の終り〟は音楽のない、静寂の世界だったりと、その対比も美しい。
あまりに多くの要素を含みながらも、
それが一つの(二つ?でもあるが)物語に紡ぎ上げられている。
圧倒的でありながら、とてもスムーズに伝わってくる物語でもある。
たぶん、文学的に読み解いていくと、
さまざまな暗喩などが用いられていたりするのだとは思う。
だが、純粋に物語世界に浸るだけでも、十分満足できる(少なくとも僕は)。


〝私〟が採った最後の選択は、何を意味するのか。
〝世界の終り〟という思念の世界で生きていくことは、何なのか。
世界の終りの生活は、〝私〟の影が言う通り、不完全な完全さで、完結している。
〝私〟自身が築いた壁の中で、
〝私〟は失ったものを取り戻せるかも知れないが、その一方で、何かをあきらめる。
ボブ・ディランの「激しい雨」が流れる中、
〝私〟は穏やかな諦念とともに、現実世界に別れを告げる。
その独特の、切なさと喜びが一緒くたになったような感情に包まれて、物語は幕を閉じる。


内面世界を選んだという結果が示す答えが何なのか、
それが何を意味するのか、僕には何だかうまく表現できない。
というか、答えを求める意味すら、無為なことのように思えてくる。
ただ、あの心地いい現実世界をあきらめる勇気は、とてもじゃないが、僕にはない。
かといって、自分が作り出した内面世界への愛着も捨てられないだろうから、
結局、想いは堂々巡りを繰り返すばかりなのだ。


自分の内面世界には、これだけ独立した幻想世界は存在しうるのだろうか。
もちろん、複雑怪奇な脳の世界のことだから、
もしかしたら僕にだって、思念で創られた世界はあるのかもしれない。
だが、こんなに筋道の立った内面世界は、たぶんなさそうだ。
もっと不条理に満ちた、不完全な混沌だけが蠢いている気がする。
もしかして、単なる桃源郷が展開するだけだったりしたら困るが…
そして、最終的な決断を迫られたとき、
その思念の世界に心を委ねることができるのだろうか。
思念の世界に閉じ込められるとき、それを受け入れることができるだろうか。
こんなことを考え出すと、つくづく想いは尽きないのだ。


そうそう、読んでいてつくづく感心したのは、
この1985年に書かれた小説が、まったく古さを感じさせない小説であることだ。
当時(と思われる)東京の風景をそこそこ細かく描写している。
だが、あれだけ移り変わりの激しい街を描きながら、
この小説の中の東京は、いまもまったく古びていない印象すら覚えさせられる。
例えば、車であったり、電化製品といったあたりはもちろん古い。
だからといって、それが気になるようなことはない。
どこか普遍的な要素を突いているから、
そのまま現代、そしてたぶん数十年先に至ってもこの小説が風化することはないのだろう。
(刊行から3020年経って初めて読んでおいて、偉そうに言うのも何だが…)


何はともあれ、文学でありながら、極上のエンタテイメントとして楽しめる一冊。
旅行先でまで、重たいハードカバーを持ち歩くだけの甲斐は十分すぎるほどあったと思う。
それどころか、読み終える瞬間は、何だかもったいなくって、
これが上巻だったらな…、などと愚にもつかないことを考えてしまった。
じゃあ下巻ではどうなるのかって?
〝世界の終り〟から、こんどは〝ハードボイルド〜〟に帰ってくるわけだ。
〝私〟の影と再会し、図書館の少女とともに、壁を越えるのだ。
もちろん、少女は森の母親とも会うし、老軍人たちも、獣たちも解放される。
(解放されたからって、幸せというわけでもないんだが…)
ううん、話に無理があるかも知れないので、妄想はこのヘンでストップ。
でも、続編とか、書いてくれてもいいんだけどな…、
なんてちょっと思いつつ、きょうはおしまい、ということにしておく。


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