絲山秋子「ニート」

mike-cat2005-11-04



絲山秋子、待望の新刊短編集ということだったのだが、
この「ニート」というタイトルが、どうにも気に入らなかった。
だから、買ってから数日は放置プレイ。
あんまり好きじゃないのだ、こういう言い換え。
もちろん、厳密な定義づけに由来する言い換えとは知っているが、
この言い換えによって、無意味に〝ニート〟が、
社会的に認められてしまったかのような錯覚が起こってくる。
そりゃ、〝プー〟じゃなかなか辞典には載せられないんだろうけど、
ニートなんて何だか、あまり好きになれそうにないのである。


しかし、なのだ。
やっぱりそこは絲山秋子であるわけだから、
ニートにも理由がある」的な、ヘンな応援みたいな小説にはならない。
ニートはあくまで題材ではあるが、それはあくまで人物造型の範疇。
ニート、という人種の哀しさ、切なさ、滑稽さを、独特のペーソスで描き出す。


というわけで、表題作の「ニート」はそのまんま、
ニートの〝キミ〟と〝私〟の微妙な関係を綴った物語だ。
わたしは、どうしても〝キミ〟が見捨てられない。
ニートに援助なんてしても、どうにもならないことは知っている。
病気でもう助からないであろう、ノラ猫にごはんをあげた方が、
5億倍くらい意味のある行動であることは間違いない。
〝キミ〟は、わたしに取り憑くヒモになる気概すらないのだ。


だから、数度目の窮地に陥った〝キミ〟に、
まとまったお金を振り込む〝私〟には、ぬぐい切れない諦観がつきまとう。
だが、それでもいいのだ。
〝私〟は自分のためにそれをやっていることを自覚しているからだ。
〝キミは一時的に助かった。
 ATMに向かうキミの後ろ姿を想像しただけで私はまた泣きそうになる。
 キミは自由だ。風俗に行ったっていいし、競馬を始めたっておかしくないし、
 街金との縁がさっぱり切れるとも思えない。
 私はキミの姉じゃないからそんなことはいいのだ。
 ただ、自分のことを思いだしてほしいという気持ちが私の中にあって、
 それは手紙と同じ類のものなのだ。
 私はキミに向かってこれを書いているけど、
 キミは本なんか読まない男だから、知らなくていい。
 自分のことを書いていると知ったら憤慨するかもしれないから知らせない。〟
そこには、〝キミ〟よりも哀しく、切ない〝私〟がいるのだ。


その姉妹編となる「2+1」も、同じように切ない。
作家としてすこし成功を手にした〝私〟が、微妙に絲山秋子自身を思い起こさせる。
別にまるまるいまの気持ちを綴ったわけでもないだろうが、
どこかそういう部分も、感じているのではないか、と勝手に邪推したくなる。
〝今の私の生活はとてもさびしい。
 友達は本のことをほめるかけなすかそんなのばかりで、
 私にはそんなことどうでもよくてむしろ苦痛で、
 結果的にごく僅かな親しい人以外とは距離を置くようになってしまった。〟
そんな中で、〝私〟はまたも窮地に陥った〝キミ〟を拾う。
気まずくなった同居人と住むマンションへ〝キミ〟を迎い入れ、世話を焼く。


何をするでもなく待っている〝キミ〟はまるで、ネコそのものだ。
〝お腹が減っていたらかわいそうかなと思って何か買おうか、
 それとも酒でもぶら下げて帰ろうか、迷って結局手ぶらで帰ってくればキミはいる。
 そして私に何の期待もしていない。
 キミは小さな声で「おかえりなさい」という。
 キミの声の出だしはいつも不安定なAとAマイナーの中間の音色で、私はキミの声が好きだ。〟
〝私〟の寂しさを紛らわす小動物のように、〝キミ〟はいるのだ。
その、未来のない切なさに、思わず涙がこぼれる。
そこには〝ニート〟という流行り言葉に内在する、イヤらしさはまったくない。
ふたつの、寂しい心の擦れ違いが、切なく、哀しく描かれるだけなのだ。


ベル・エポック」は
婚約者を事故で亡くしたみちかちゃんが、故郷の桑名に帰ることになった。
引っ越しの手伝いでみちかちゃんのもとを訪れる〝私〟。
何でもない会話の中に、切なさがこもる、しみじみな一編。


「へたれ」は
新幹線に乗って、遠距離恋愛の相手、松岡さんの住む大阪に向かう〝僕〟の話。
文字通り、へたれな〝僕〟の、うじうじした想いが、描き出される。
松岡さんは凜とした人。
スマートでセンスもいい。それでいて、よく笑う素敵な女性だ。
だが、〝僕〟はそんな松岡さんに対し、かすかな居心地の悪さも感じる。
〝もし将来一緒に暮らす、なんてことがあるとして、
 僕がホームセンターとかでしょうもない買い物をしてきたら、
 きっと松岡さんにたしなめられるのだろう。〟
つまるところ自信がないのである。だから、うじうじとつまらないことを考える。


〝松岡さんが本当のところ何を考えているのか僕にはよくわかならい。
 僕と話しているとき彼女はたくさん笑うけれど、
 大阪の男はきっと僕なんかより面白いことを言うだろう。
 彼女は僕に優しいけれど、誰にでもそうなのかもしれない。
 僕が松岡さんに優しくするのは僕の弱さだ。
 僕は松岡さんは過去にどんな男とつき合ったかさえ聞けないのだ〟
まったく、このへたれが…、という感じではあるのだが、
この感情、わからなくもない、というか、けっこうよくわかる。
誰にだって、ではないが、こういう恋というのも、あるのだ。
いわゆる高嶺の花、相手だからというだけではない、不安感。
恋するものの不安定な感情を、そのへたれ具合で、切実に描き出すのだ。


面白いな、と思ったのは、
〝僕〟の勤務先は東京なのに、新幹線の出発は品川を選ぶところだ。
〝品川駅は東京駅みたいにしみじみしていなくていい。
 万感の思いをたたえたひとなんかいない。
 華々しい出発も涙の別れもない。
 昔の人みたいに、列車の仲間でずかずか入り込んでくるような、うっとうしい見送りもない。
 つまり、無機質で味気ないってことでもある。
 プラットホームは靴屋や文房具屋と変わらない、目的を持った人の通過点だ。〟
まあ、いまの東京駅がそこまでノスタルジックだとは思わないけど、
駅としての機能性を重視した、無機質的な品川の描写が、いい。
僕自身も〝品川派〟なんだけど、あの無機質なりのよさ、がうまく描き出されてる。
ま、こんなこと書いてると、僕もへたれの仲間なのか、という気もしてくるが。



「愛なんかいらねー」は、官能小説にカテゴライズしてもいい。
大学講師の〝私〟のもとを、数年ぶりに訪れた、かつての学生。
ひょんなことで刑務所に服役していた男と、関係を持つ〝私〟。
男が求めるその〝行為〟は、何と…


率直にいうと、スカトロだ。
僕は経験もないのにいうのも何だが、興味ない。
むむむむむ…、人それぞれだな、としか言いようがない。
まあ、それはそれ、そういう未知の世界に踏み込んだ〝私〟の感情描写はさすがだ。
さすがなんだが、文字通り〝匂い立つ〟ような行為は、正直きつい。
それが文学だ、と言われればそこまでだけど、ちょいと微妙な作品だった。


というわけで、全編を通じて、じゃないけど、
絲山秋子が描き出す、その独特な切なさを満喫できる。
海の仙人」「袋小路の男」には及ばないけど、
ファンにはたまらない作品集だと言っていいだろう。
最後の〝スカトロ祭り〟はちょっと…、だったが大満足の一冊だった。