ロバート・J・ソウヤー「ホミニッド-原人 (ハヤカワ文庫SF)」

mike-cat2005-10-27



いよいよ3部作完結編「ハイブリッド―新種 (ハヤカワ文庫SF)」が刊行された、
ネアンデルタール・パララックスの第1作にして、ヒューゴー賞受賞作。
完結編までウズウズしながら待つのがイヤで、
これまで我慢を重ねてきたのだが、ついに解禁となった。
ソウヤー作品といえば、たぐいまれな発想と、圧倒的な描写力で、
思わず夢中になって読まされてしまう傑作が数々あるのだが、
この作品も、思わず「たまらん!」と叫ぶくらいの面白さ。
難しそうな物理学とか、生物学、遺伝学の説明も、
うまいことかみ砕いてくれるので(とりあえず理解したような気分で)
何の障害もなく、物語世界に入り込むことができる。


〝事件〟は、オンタリオ州にあるサドベリーの観測所で起こった。
観測機器の中に突如として現れた、謎の〝人物〟。
眉が張り出し、前後に長い頭の形、頤の出っぱりのないアゴ
その特徴は、約3万年前に絶滅したはずの、ネアンデルタール人そのもの。
そう、その〝人物〟は、
クロマニヨン人ではなく、ネアンデルタール人が進化した、
パラレルワールドからまぎれ込んだ〝もうひとつの人類〟だった。


異文化同士の接触、という設定の定番といえば、異星人だ。
もしくは、過去or未来という時間軸。つまりタイムトラベルものだ。
ソウヤー作品でも「イリーガル・エイリアン (ハヤカワ文庫SF)」「フラッシュフォワード (ハヤカワ文庫SF)」などがある。
だが、パラレルワールドで進化したネアンデルタール人、というのは、
もう、感心するほかないくらい、すごい発想なんではないかと思う。
もちろん、生き残っていたネアンデルタール人、という設定の小説は、
過去にも読んだし、まったくの唯一無二、とはいかないのだろう。
しかし、その発想を上質のエンタテイメントとしてまとめ上げるのは、また話が別だ。
SF読者としては底の浅い僕が言うのもなんだが、
やっぱり、ソウヤーにしか書けない、とてつもない小説なんだと思う。


ネアンデルタール人の築いた〝もうひとつの世界〟は、
まるで理想郷そのもののように描かれる。
だが、単なるユートピアを求めて、そんな世界にしたわけではない。
クロマニヨン〝人類〟の持つ暴力性や愚かさ、理不尽さがもたらした、
さまざまな破壊、そして害悪などに対する、強烈な皮肉でもある。
いまは絶滅したマンモスが暮らし、リョコウバトが飛び交う、そんな世界。
別に宗教などに頼らなくても、自分の力で幸福追求ができる世界。
まあ、これはけっこう異論もあるのだろうが、
歴史をたどれば、宗教のもたらしたものが何かは、容易にわかる。
そんな、さまざまな〝if〟を形にした、高度な遊びが効いた小説なのだ。


また、とてもいいな、と思うのは、この小説が、
われわれクロマニヨン人の視点からだけではなく、
クロマニヨン人が進化した〟パラレルワールドに放り込まれた、
ネアンデルタール人のポンター・ボディットの視点でも描かれている点だ。
アメリカ大陸を〝発見〟した、と平気でのたまい、
自分たちだけが知らなかったことを〝新事実〟としてしまう、
ヨーロッパ中心の世界観、歴史観のように、
一方的な視点で描くようなせせこましい真似はしないのだ。


ポンターが〝どこに迷い込んだのか〟を知ったときの独白が興味深い。
ポンターの世界でクロマニヨン人は〝グリクシン〟というのだが、
〝たとえ人類がなんらかの理由によって生きのびることができなくなるにしても、
 そのかわりにグリクシンが栄えるはずがない。
 グリクシンは絶滅したのだ。
 彼らが復活するというのは、恐竜が復活するのと同じくらいありそうもないことだ。〟
〝ここは未来でもなければ過去でもない。ここは現在だ−並行宇宙なのだ。
 この世界では、信じがたいことだが、
 先天的に愚鈍なグリクシンたちが絶滅しなかったのだ。〟
「絶滅した人類が何を!」という向きもあるのだろうが、
現実に、ネアンデルタール人の方が、
頭脳も大きく、身体も力強い、生物学的に優れた人類だったというのは定説だ。
つまり、ポンターのいう〝信じがたいこと〟がいまの現実なのだ。


思うに、いまの世界では、
いわゆる〝ヨーロッパ人〟そしてその価値観が世界を席巻しているが、
それはヨーロッパ人がアジア人、アフリカ人などより優れていたのではなく、
ただ単に攻撃性と残虐性が高かっただけ、という風に考えるのも別に不思議はない。
それは、ネアンデルタール人が絶滅し、クロマニヨン人が生き残った、
という事実を説明するのには、いかにも受け入れやすい答えでもある。
実際、人類は地球上の多くの生物種悪戯に絶滅に追い込んでいるのだから、
その証明すら、すでに終わっている、という考え方もできるのだ。


そんなことも考えさせてくれる、ソウヤーならではの視点に加え、
これまたソウヤーならではの、
シャレの効いたディテイル描写も、相変わらず満載だ。
たとえば、サドベリーの観測所では、
ポンターが突如現れた仕組みを議論している最中に、誰かが口笛を吹く。
それは「スター・トレック」であったり、「トワイライト・ゾーン」であったり。
たとえば、メディアで話題になったポンターに会見の要求が殺到する。
ネルソン・マンデラダライ・ラマという〝当たり前〟の人物たちの中に、
例の叶姉妹顔負けの笑っちゃう女優の名前が並んでいたりする。
(ああ、でもヒルトン姉妹ではないです。念のため)
こういう〝思わずニヤリ〟でも、読む側は徹底的に楽しませてもらえるのだ。


この本を読む上で、ただひとつだけ失敗したことがある。
それは、続編「ヒューマン -人類- (ハヤカワ文庫 SF (1520))」をあらかじめ買っておかなかったこと。
実はいま、身がよじれるような思いでレビューを書いているのだ。
とにかく続きが読みたいのだが、
まだ書店に行くことができる時間まではややあるので、リンダ困っちゃうのだ。
というわけで、次は失敗なきよう、
残り2冊をきちんと買って帰ることを心に誓うのだった。