戸梶圭太「自殺自由法」

mike-cat2005-10-20



〝ついにできました待望の法律
 君は死ねないから、生きているのか? 1億2千万人の生と死の風景〟
発想が面白いというか、シャレにならないというか、
いかにも戸梶圭太らしい、かっ飛んだ設定でグイグイ迫ってくる問題作だ。
しかし、考えてみると、そもそも自殺って、いまでもある意味〝自由〟なのである。
死にたい者は、勝手に死ねばいいだけだ。
ただ、人にバレないよう、うまくやらないと止められるし、
法律上では犯罪でなくても、道徳的には〝認められていない〟といっていいだろう。
いや、もちろん一般的に、という意味でだが…
だから、最初タイトルを聞いて「面白い発想だな」と思いつつも、
どうその〝自由〟を定義するのか、疑問はあった。
「何を」「どう」自由にするのか、自殺に伴うさまざまな問題をどう処理するのか。
いろいろ頭に浮かべながら、本を開いてみた。


200×年、法案の成立により、国、自治体は、個人の意思による自殺行為を止めることを禁止した。
いわゆる「自殺自由法」の成立である。
〝日本国民は満十五歳以上になれば何人も自由意思によって、
 国が定めたところの施設に於いて適切な方法により自殺することを許される。
 但し、服役者、裁判継続中の者、判断能力のない者は除外される。〟
自治体では、「自逝センター」を設置し、
簡単な手続き、送迎サービス付で、自殺を幇助する。
〝もう自殺は疚しくない〟
社会的に自殺が認められたことで、死生観は変容し、新しい自殺の形が現れるのだった。


うむ、なかなか深い。深いんだが、ひとつ忘れていたことがあった。
この小説、そういえば戸梶圭太作品だったのだ。
つまり、バカしか出てこない。
つまり、「自殺自由法」に衝動的に反応するヒトだけで、小説は描かれるのだ。
だから、けっこうシリアスな問題であるはずのドラマが、
思わず苦笑を禁じ得ない、ドタバタなブラック・コメディに仕上がっている。


トップ俳優が「もうやりたいことはすべてやったから」と記者会見で自殺を発表してみたり、
当然のように〝姥捨山〟よろしく、自逝センターが人口減少の道具にされたり、
それにヤクザが絡んで違法な人集めが行われてみたり、
自殺前の〝記念ヌード〟が、有名カメラマン撮影で出版されてみたり…
やっぱりバカばっかりなのだ。
自逝センターの内部が一切明らかにされていなかったり、
さらに自殺自由法自体の存在が報道規制の対象となっていたり…
と、興味深い部分も多々あるのだが、やはり登場するのはバカのオンパレード。
いわばカジュアルな自殺ばかりで、シリアスでシビアな自殺、というのはあまりない。


巻末で戸梶圭太は、
〝本作脱稿後、作者は鬱に陥りましたが、わずか二日で元に戻りました。
 読者の皆さまもご安心ください。すぐに日常に戻れます。どんな日常かは人それぞれですが。〟
と書いているが、それほど負のパワーを前面に押し出した作品でもない。
むしろ〝自殺〟という現実の問題を、
あくまで理念上の出来事として、コミカルな切り口で論じて見せた、という感じが強い。
たぶん、本当に鬱になった、とかいうことではなく、
シャレの一部として書き添えたのだろうな、というのが、正直な感想でもある。


こういう本を読んで笑っている僕も、たいがい人でなしだな、と思うのだが、
あんまりまじめに読むのもどうか、という作品であるのも確かだ。
まじめに自殺を論ずる上では、こういう極端な例も無視はできないのだろうが、
あくまで本筋の議論とは別の次元にあるような気がしてならない。
〝自殺〟という題材を、シャレで片付けるのも問題な気はするが、
やっぱりこの本は、シャレとして楽しむのが一番ではないかな、と。
だから、笑って読めた、という感想でも、何とか許して欲しいな、と。
結局、何だか言い訳めいたレビューになってしまったのだった。