戸梶圭太「CHEAP TRIBE-ベイビー、日本の戦後は安かった」

mike-cat2005-10-15



〝トカジがほじくり出す、できればなかったことにしたい昭和史
 でも、そうはいかない。あなたもそこにいたでしょう!〟
昭和の底辺を生きた男、永吉の激安人生を通して、昭和史を描く。
あなたもそこにいたでしょう? と言われても困るのよ。
主人公の永吉は1950年生まれ、僕が生まれたの、もっと後だもの…


小説は1957年、1969年、1974年、1985年、1995年の5章立て。
非人道的な労働環境の炭坑に生まれた永吉の悲惨な少年時代を過ごし、
上京後は女っ気もなく悶々と過ごし、そして越えてはならない一線を越える…
社会の底辺で、しかも不誠実に生きる永吉の姿が、
もっとも浅ましいレベルの昭和史を赤裸々に、そしてえげつなく描き出すのだ。


これまでも何冊か読んだトカジの作品と同様、
読んでいて、不快感を味わいつつも読み進めずにはいられない、
不思議な魅力と、どす黒さにあふれた作品だ。
汚れたもの、危険なものをついつい見てしまうような、
怖いもの見たさの引力が、作品のそこかしこからあふれている。


永吉の生まれた炭坑には、人権なんてものはなかった。
奴隷そのものといっていい労働者たちは、
過酷な労働だけでなく、理不尽な虐待に苦しみ、使い捨てられていく。
そんな労働者の子どもにも、当然人権なんてものはない。
不衛生、栄養不足、絶え間のない暴力の中、
ゴキブリ並の生命力を持つ子どもだけが、しぶとく生き抜いていくだけだ。


ここで普通の小説なら、永吉はむしろ頑張り屋さんだったりするのだろう。
だが、これはあくまで、戸梶圭太の小説。
子どもの真っすぐな純真さとか、踏まれても枯れない雑草のたくましさみたいな、
ポジティブな視線で永吉をとらえる真似など、一切する気もない。
大人の邪悪さを、凝縮したような、中途半端な悪賢さが存分に発揮される。


そして、こんな環境で育った永吉の行動の原点は、常に〝ヘッペ〟だ。
東北弁と思われるのだが、いわゆるナニである。
当然のように、不細工に生まれ、教養もない永吉には女っ気はまったくない。
お金もないから、風俗でどうこうということもできない。
これまた当然のように、ただただ悶々と、妄想を膨らませていくだけだ。
で、ここで努力してどうこう、とかいう空想物語にはならない。
先にも書いた通り、戸梶圭太の小説だから、
安直に犯罪に手を染め、簡単に失敗する。そしてますます追いつめられていくのだ。


そんな永吉の激安人生を彩るのが、その時代なりの安い価値観だったりする。
生きるのに精いっぱいだった1950年代は、ひとの値段などあってないようなもの。
その中での、みっともないまでの弱肉強食が、壮絶に描かれる。
60年代安保の時代になると、甘えた学生たちの饗宴が社会を停滞させる。
オイルショックなどに揺れた70年代のさまざまな社会不安、
バブルに踊った80年代、戸塚ヨットスクールを思わせる無責任な社会の有り様、
そして不況が襲った90年代、かろうじて体裁を保っていたモラルが崩壊していく…


常に〝ヘッペ〟を求め続けた永吉の末路は、本当にどうしようもない。
というか、人生そのものがどうしようもないのだが、
それが、昭和史そのものを象徴するようなメッセージには違和感を感じる。
あくまで、断片的な昭和史に過ぎない、とは思うのだが、
いつまでたっても〝まともな国〟になることのできない、
ダメな日本の〝ある一面〟を、ありありと描き出しているのも確かなのだ。


読み終えると、どよんとした気分が心の底に沈殿する。
わざわざ、何を好きこのんで、こんなイヤな気分を味わうのか、とも思う。
しかし、また読まずにはいられないのが、戸梶圭太の魔力、なのだろうか。
次に読む予定のトカジ本は「自殺自由法」

自殺自由法

自殺自由法

たぶん、またどよんとした気持ちになってしまうのだろう。
こういうの、ダウナー系のクスリに通じる部分なのだろうか。
別に知りたいとも思わないけど、気にはなったりするのだった…