トルーマン・カポーティ「冷血」

mike-cat2005-10-13



〝魂の暗部を抉りつくすノンフィクションノベルの金字塔〟
金字塔、の前には「言わずと知れた」のひと言を添えてもいいだろう。
とか、言う割に実は読んだことがなかったのだ。
言い訳になるのだが、いわゆる〝古い翻訳〟がどうにも苦手。
たとえ、名訳と言われるものでもダメ。
読んでいても、内容がまったく頭に入ってこないのだ。
で、今回の新訳、発表40周年記念出版に乗って、手を出してみた。


事件の舞台は1959年、カンザス州西部のホルカム村。
当地の農場主ハーブ・クラッターの一家4人が惨殺された。
のどをかき切られ、後頭部に、顔に、散弾銃を撃ち込まれ…
犯人は刑務所を出所したばかりの二人組。
ふたりを凶行に導いたのは何だったのか、
そして、クラッター一家はなぜ、殺されなければいけなかったのか。
膨大なインタビューと調査に3年間を費やし、6000ページに及んだ資料と、
さらに3年間の歳月を費やし、編まれた渾身の〝ノンフィクションノベル〟。
いわゆる、真実に基づく物語−だ。


事件自体は、いまとなっては決して珍しい類のものではない。
無論、それはまったく望ましいことではないのだが、
これを越える残虐な〝手口〟は、正直掃いて捨てるほどある、と言ってもいいはずだ。
だから、センセーショナリズム的な部分では、そう衝撃は受けない。


さらに、誤解を恐れずに言うなら、少なくとも僕は
「何で、こんな犯罪が起こってしまうのか…」という感傷もあまり受けない。
許されない犯罪であること、にまったく異論はないが、
こうした犯罪が容易に起こりうる、という可能性も否定はできない。
世の中には、〝いい、悪い〟の尺度がまったく異質な、
社会病質者、犯罪者は確実に、それも考えている以上の確率で存在する。
で、戸梶圭太の小説じゃないが、この連中に〝こころの暗い闇〟などないのだ。
「つい、カッとなって…」「邪魔だったから…」のレベルで、衝動的にコトを運べる。
背景の理解も、同情も必要ない。ただ、そういう連中だというだけなのだ。
だから、作品で描かれた、犯人たちの内面そのもの、に関してはさほど衝撃はない。


それよりも、この作品の価値は、やはり事件を詳細に、そして多角的に再現し、
良くも悪くも娯楽として耐えうる、ひとつの物語として編み上げた点にあると思う。
現実に人が殺されているのだから、はなはだ不謹慎とは思うのだが、
本として読む以上、やはりその〝怖いもの見たさ〟的な下世話な部分は否定できない。
少なくとも、僕は否定しない。否定したら、偽善者になってしまうから。
殺されたくないけど、気になるし、知りたいと思うのだ。
たぶんカポーティだって、そんな読者の下世話な気持ちに応えるべく、
読み物としての娯楽性を追求しているはずなのだ。


物語は、事件前夜から、犯人二人組が13階段を上り詰めるまで、
被害者一家の周辺、犯人たちの周辺、そして捜査関係者、裁判関係者に至るまで、
さまざまな角度から語られ、描かれていく。
その多層に織り込まれたドラマは、それだけでも、読むものを圧倒する。
すべてが100%の真実かどうかは、正直よくわからない。
もちろん、事実の歪曲、という意味ではない。
見る者によって真実は違う、という点で、だ。
あくまでこの〝ノンフィクションノベル〟はカポーティの視点で切り取った〝真実〟なのだ。


だが、そんな中でも興味を引くのは、殺されたクラッター一家の〝属性〟だ。
コロラドとの州境に近い、いわゆる中西部の真っただ中、
〝バイブルベルト〟とも呼ばれる〝アメリカでももっとも福音にとりつかれた一帯〟。
ハーブはその地で、メソジスト派の敬虔な信者として、一代で事業を成功させた。
当然、アクの強い起業家ではなく、地元で愛され、信望も厚い。
その人物が、年ごろの娘や息子も皆殺しにされたのだ。


ある証言が、地域住民の受けた衝撃を、端的に物語る。
「もし、事件にあったのが、クラッター家でなかったら、みんな、
 今の半分も気を高ぶらせることはなかったでしょうね。つまり、事件にあったのが、
 あれほどの信望も、財産も、安定もない家だったら、ということですが。
 あの一家は、この辺の人たちが心から評価し、尊敬するもののすべてを代表していたんです。
 ですから、あの一家にあんなことが降りかかったというのは−そうですね、
 神は存在しないといわれたようなものなんです。
 人生が無意味になりかねません。みんな、怯えているというよりも、
 深く沈んでいるのだとわたくしは思います。」
まさに、神も仏もない、の世界に、地域住民はたたき込まれてしまったのだ。


そして、地域社会は変質する。
〝それまで、村人たちはお互いに警戒心を抱くこともなく、
 家のドアに錠をおろすこともめったになかった。
 しかし、それ以後は、何度となく空想でその轟音を再現してみるようになった。
 その陰にこもった響きは、不信の炎を掻きたてた。
 炎のぎらつく光の中で、古くからの隣人同士も、
 見知らぬ間柄のように、お互いを猜疑の目で見るようになったのだ。〟
それは、捕まった犯人二人組が、
まったく地域社会に縁のない人間だったと判明した後も、元に戻ることはなかったのだ。


なぜ、この事件が地域住民にとってセンセーションだったのか、とてもよく伝わってくる。
自分たちの信じていたものが崩れさっていく様は、
圧倒的な迫力を携えながら、読む者の心の奥底に迫ってくる。
ほかにも読みどころはたくさんあるのだが、
少なくともこうした描写だけでも、読む価値のある一冊だといえるだろう。
名著、傑作といわれる由縁が、ようやく理解できた。
つくづく、新訳の出版に感謝したいな、と思う。
新訳が出なければ、手にすることは決してなかったはずだから…


ところで、アメリカでは9月末、
フィリップ・シーモア・ホフマン(「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」)主演、 
キャスリーン・キーナー、クリス・クーパーの共演で、映画「CAPOTE」が公開された。
http://www.sonyclassics.com/capote/
「冷血」の6年間を追ったカポーティの伝記映画だ。

町山知浩氏のブログによると、
当時作家として、行き詰まっていたカポーティが、
再浮上のきっかけとして、そしてメシの種として、
犯人たちのインタビューに臨む姿が描かれているという。
「ノンフィクション作家による搾取」という視点がこれまた面白そうだ。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20051010
各方面の批評サイトをのぞいてみたが、軒並み高評価を得ている。
日本公開が待ち遠しいところだが、
まあこちらはどうせ、来年のアカデミー賞発表後とかになるんだろう。
で、さらに大阪は、東京に一カ月か二カ月遅れで公開…
ああ、この本の中身を忘れる前に観ることができるんだろうか。
心の声は、7−3のオッズで忘れると言っているのだが、果たして…