ロバート・J.ソウヤー「フラッシュフォワード (ハヤカワ文庫SF)」

mike-cat2005-09-25



2009年、ヨーロッパ素粒子研究所(CERN)で行われる世紀の大実験は、
最後のカウントダウンを残すのみの段階になっていた。
カナダ出身のロイド・シムコーと、ギリシャ出身のテオ・プロコビデスが中心となって、
準備を進めてきた実験が成功すれば、ノーベル賞は確実。
宇宙誕生−ビッグバン−の状態が再現され、
物理学における聖杯がもたらされるはずだった。
しかし、実験がもたらしたのは、予想だにしない現象だった。
世界中のすべての人間の意識が2分間だけ、21年後の未来に飛んでしまったのだった。
そう、実験はフラッシュフォワード《未来転移》を巻き起こしたのだった。


単純に分類すれば、タイムトラベルものの亜種、となるのだろう。
単純なタイムトラベルではなく、意識だけが飛ぶ。その発想の奇抜さもすごい。
だが、21年後に2分間。このさじ加減にこそ、この作品の味があると思う。
21年後という、微妙な未来。
科学技術など、革命的に世の中が変わっているわけではないはずだ。
20年後の自分というのも、微妙に想像がつく程度の頃合いだろう。
その20年後を知ってしまったことで、落胆する者あり、戸惑う者あり、喜ぶ者あり…
とても身近なレベルで、知りたい未来に接することができる。


しかし、その一方で2分間という、時間的制約がまたたまらない。
「さあ、見るぞ」と準備していて、その上未来にも自由意思があるならともかく、
突然放り込まれた未知の世界で2分間、未来の自分の意志で何かを見るだけだ。
未来のその瞬間に眠っていら、夢を見るだけだし、
ボーッとしていたら、それを見るだけだ。
非常に断片的な情報しか手に入らない、というところに、ドラマが生まれる。


たとえば、現在45歳のロイドは、
婚約者のミチコとは違う、見ず知らずの老婆と、ベッドの上でお戯れだ。
しかし、突如尿意を催して、洗面所に出向く。そこに映った自分の姿は…
何が何だかわからないまま、意識が現在に戻る。
それが〝未来〟だと気づいたとき、ロイドは思い悩む。
あれは誰だ。なぜミチコと一緒ではないのか。では、この結婚はどうなるのか…
27歳のテオにいたっては、何ひとつ見ることがなかった。
これが意味することは…


基本的なストーリーラインは、
この二人の、心ならずも知ってしまった未来への葛藤が、その骨子となる。
タイムトラベルものの不変の命題、未来は変えられるのか、
というテーマにも踏み込み、いかにもソウヤーらしい手に汗握るドラマが展開される。
世の中の人が全員、2分間意識を失った場合の、
現実世界もどうなるか、という問題もからめ、
そのドラマは思わぬ方向に進んでいったりして、これまた楽しい限りだ。


だが、この小説の楽しみは、未来像を知った世界各地の反応の楽しさにある。
たとえば、
2030年にはアメリカドルに対する日本円の価値が半減することが判明する。
すると現在でも、円は大量売りで急落、低迷する日本経済は大打撃をこうむる。
たとえば、
独立運動が続いているカナダのケベック州は、21年後も独立していないことが判明する。
中国も現体制がそのまま継続していることが判明する。
すると現在でも、ケベック独立運動や、中国の反体制運動は意気消沈する。
望まない将来像に悲観し、自殺するものも後を断たなかったり、
未来で見た新製品をヒントに、特許申請が殺到してみたり…
if、という設定のもと、その想像力を駆使して、さまざまな仮想世界を作り出す、
そんな高度な〝遊び〟がふんだんに織り込まれているのだ。
ルーカスのあの映画のその後だとか、
2030年までに最大のヒットを飛ばしたのが、
現実世界で最近リメイクされたあの映画だったり、
など、映画ファンが思わずニヤリとするような描写もあったりして、これもまた一興だ。


もちろん、読者は〝自分の21年後〟に想像をめぐらさずにはいられない。
ウン十ウン歳の自分が何をしているのか、どうなっているのか。
もう、明るい将来を夢想する歳でもないので、
何となくショボい想像しかできないのが残念だが、
またそれはそれで自虐的な楽しみも、ないわけではない。
それでも、願わくばこうだったら、とか、このくらいは…、
なんて、害もない想像を楽しむのも悪くない。
本そのものの出来としては
さよならダイノサウルス (ハヤカワ文庫SF)」「ターミナル・エクスペリメント (ハヤカワSF)」といった大傑作には及ばない佳作の域。
だが、そんなイマジネーションのタネ、を提供してくれるだけでも、
読む価値のある一冊だとは思う。