浅田次郎「憑神」

mike-cat2005-09-24



かなりご無沙汰の浅田次郎
そういえば、時代物も最近読んでいなかったので、一挙両得で読んでみる。
しかし、「憑神」ってのも穏やかじゃないな、なんて思いながらも、オビに
〝涙と笑いの浅田節〟とあれば、そら読まなきゃならないだろ、ということで。


時は幕末、舞台は江戸。
別所家は、由緒正しい御徒士といえば、聞こえはいいが、所詮は下っ端の貧乏武士。
その次男坊に生まれた彦四郎は、武芸に秀で、学問にも才がある三十二歳。
旗本の家に入り婿し、世継ぎもできたまではよかったが、
舅の奸計に嵌り、種馬よろしく離縁され、いまは〝出戻り〟として、
家督を継いだ兄の家の離れに、兄嫁にいびり出された母とともにわびしく暮らす毎日だ。
ある日、霊験あらたかな三囲稲荷様の噂を聞いた彦四郎は、
酒の席の帰り道、それらしきお稲荷さまの祠を見つけ、お参りする。
しかし、その祠の名前は、〝三巡稲荷〟。
彦四郎のもとに現れたのは、神様は神様でも、来てほしくない類の〝神様〟だった。


この彦四郎、才能にあふれ、正義感の強い男なのだが、生まれた時代が悪かった。
泰平の世も250年続けば、どんな制度でも疲弊する。
武士の矜持はどこへやら、こせこせと出世に邁進する連中に、まるでやる気のない連中。
そんな中で彦四郎の存在は、どこまでも異質だ。
低きに流れるような安易さもなければ、周囲とうまく融け合ような融通も利かない。
さりとて、世を拗ねるでもないのだから、
立派な人間ではあるのだが、それで報われるでもなし。
まことに中途半端な生き様に甘んじている、ということになってしまう。


そんな彦四郎に訪れた不運の極めつけが、この来てほしくない類の神様だ。
あえて詳しい説明はしないが、さまざまな姿をして現れるこの神様連中、
拝んでしまったのが運の尽き、と彦四郎に容赦なく不運を投げかける。
で、たちが悪いのが、霊験のあらたかさでいくと、なかなかのものなのだ。
いわく
「実力から申しますとな、伊勢の大神、出雲大社あたりには一目置くとしましても、
 山王さまや神田明神さまよりは上でございましょう」
ネガティブな方面で自慢されてもどうにもならないのだが、実力は十分なのだ。
だから、彦四郎はあっという間に、さらなる転落に巻き込まれるのだ。


しかし、それだけではただの不幸物語なのだが、ここからの仕掛けが違う。
あんまり詳しく書くと、お楽しみがなくなってしまうので、さわりだけにするが、
この神様連中にも、それなりの聞き分けがあったりするのだ。
そここそ彦四郎の才能の使いどころで、神様連中をうまいこと取り込んでしまう。
その様子に何ともいえないペーソスが漂ったりするのだが、
いかにも浅田次郎らしい泣き笑いで、
その巧みな文章に騙されるか、と身構えながらもついつい泣き笑いしてしまう。


時に不運を背負い込み、時に不運をかわし、と泣いて笑っての紆余曲折を経て、
彦四郎が手にするものは、いままで見つけられなかった〝武士としての生き様〟だ。
幕末の騒乱の中、ただ流されるものあり、新しい道を歩むものあり…
その中でもっとも難しい、武士としての矜持を保ちながらの生き様。
中途半端な人生に甘んじていた彦四郎は、
来てほしくない類の神様たちとのやりとりを通じて、一番の宝物を見つけるのだ。


作品そのものは、浅田次郎にしてはやや平均的な出来かもしれない。
終盤の説明くささがちょっと災いして、カタルシスという点では微妙にもの足りない。
時代物に求められるような、勧善懲悪の点でも、曖昧な部分は多い。
だが、やはりペーソス溢れる笑い、という、
浅田次郎印の人情ものとして、クオリティはやはり並大抵ではないレベルだ。
過去に、浅田次郎に泣かされた、という人には是非、お勧めしたい一冊だろうと思う。