茶屋町はテアトル梅田で「コーチ・カーター」

mike-cat2005-09-23



ジュールス「パルプ・フィクション」&メイス・ウィンドゥ(「スター・ウォーズ」)の
サミュエル・L・ジャクソンが高校のバスケットボールチームに扮した感動作。
〝グレート・アンガー〟の名せりふは聞けないが、熱い熱い語りに胸を打たれる。


大学進学率は最低、卒業生の多くが犯罪に手を染めるリッチモンド高。
その落ちこぼれ校の弱小バスケチーム〝オイラーズ〟に、
かつてのスターOB、ケン・カーターがコーチとして舞い戻った。
新任コーチが就任の条件として、選手たちと交わした〝契約〟は型破りだった。
「ニガー」など汚い言葉は使わない、試合にはジャケットとタイ着用、
授業には必ず教室の最前列で参加し、一定以上の成績を残すこと。
評点2.3(C+程度)を下回った場合、練習もプレーもできない、だった。
厳しいトレーニングが実り、チームの成績は前年までと一転、連戦連勝。
地域の招待大会でも優勝を果たし、チームは地域に一大フィーバーを起こす。
だが、選手たちはその裏でコーチを裏切り、授業をサボりにサボっていた。
その事実を知ったカーターは、公約通り体育館をロックアウトしたのだった。


日本のプロモーションなんかでは、
〝文武両道〟を求めたコーチ、という触れ込みもあったが、これは間違いだ。
カーターは文武両道を求める気など、いっさいない。
説明が長くなるが、実は文武両道、という言葉自体がまず、
心は尊く身体は賤しいものとする心身二元論をもとに語られるケースが多く、
そのたいていが、スポーツだけでは価値がない、としておきながら、
学問だけなら価値がない、とは決して言わない。
そんな偏った思考に与する場合がほとんどだ。
カーターが文武両道を求めた、というなら、
「バスケだけ強くったって価値はない。勉強もして立派な人間になれ」という、
まことに道徳的でつまらん映画になってしまうだけだったろう。


しかし、全然違うのである。
カーターが、学業成績に注文をつけたのには理由がある。
その成績を残すことによって、
選手たちは大学への奨学金が手にできる可能性が広がるのだ。
もちろん、大学にいくことだけが人生じゃない。
だが、貧困にあえぐ地域の若者にとっては、
少なくとも多くの選択肢を手にするチャンスとなる。
バスケでつかの間の栄光だけに血道をあげるのもいいだろう。
それもひとつの選択肢であるなら。
だが、ほとんどの選手にとって、
それは絶対的な閉塞感の中での、一瞬の癒やしでしかない。
卒業後は否応なしに
ドラッグに、犯罪に手を染め、刑務所に入り浸り、最後はストリートで殺されるか、
もしくは、請求書の山に囲まれながら、先の見えない最低賃金仕事ですり減っていく。
そんな若者を多く見てきたカーターだからこそ、ゲームへの愛を育むとともに、
選手の将来にも寄与していきたいと考えるのだ。


カーターは、生徒のプライドや尊厳教育にも、余念はない。
つねに〝安い〟人間として扱われてきた彼らに、「ミスター」「サー」を用いて対峙する。
ジャケットとタイ着用も含め、まずは形からではある。
だが、正確な言葉は忘れたが、世阿弥のいうことには一理あるのだ。
〝形から入りて心に至り、心より入りて形に至る〟
つまり、安い人間として振る舞わないことで、その行動のもたらす意味を考える。
上っ面ではない、彼らのロールモデルを提供するのである。


それは同時に、カーターと交わした契約に関しても一緒だ。
バスケで活躍したから、といって契約に特例は認めない。
バスケが巧ければ…、家が金持ちだから…、だの世にインチキは多い。
多いんだが、そのインチキでずっと世の中を渡っていける人間はそういない。
別に若者に対する教育に限定された問題ではない。
インチキがまかり通ると知った人間が次第に腐っていき、
結果的には痛い目に遭う、というのが、ほとんどの人間の行く末だ。
ならむしろ、約束を守る、責任を全うする、という自分への尊厳に訴えかけ、
本当の意味でのプライドを身につけさせていくことが、
どれだけ彼らの将来のためになるのか。
カーターは、常に問いかけていくのである。


そんなカーターの敵は、地域社会だ。
ちょっと連勝を続けただけで選手たちを甘やかし、増長させる。
ロックアウトを行い、試合を放棄させたカーターに対しては、
徹底的な嫌がらせと、解任要求までやってのける。
誰も選手たちの未来なんて考えていない。単なる一過性の楽しみとして、消費するだけだ。
誰よりも選手たちのことを考えたカーターが、
パブリック・エネミー・ナンバー1になる皮肉。
そこからのドラマに、この映画のカタルシスのすべてが注ぎ込まれる。


実話をベースにしたということで、
そのカタルシスそのものも、シュガーコーティングされた甘い夢ではない。
何でもいいから泣かせて、というムキには、すこしビターな味わいとなる。
だが、選手たちが、自分たちのたどった軌跡をどう受け止めるかを見てとれば、
そのビターな味わいにこそ、おとぎ話ではない、リアルな希望が見えてくるはずだ。


監督は「スウィング・キッズ」「セイブ・ザ・ラストダンス」のトーマス・カーター。
脚本は「陽だまりのグラウンド」を手がけたジョン・ゲイティングスら。
ある意味使い古されたような映画の筋立てで、さらに136分の長尺だというのに、
まったく長さを感じさせない手腕は見事としかいいようがない。
ロブ・ブラウン、ロバート・リチャード、リック・ゴンザレスら選手たちも、
名作「いまを生きる」の
イーサン・ホークロバート・ショーン・レナードらに匹敵する、と個人的には思う。
アシャンティが何だかフツーのオネエちゃんを演じているのも好感大だ。


単純なストーリーではあるけど、
いわゆるスポ根にありがちな
「しかし、実際のトコそれでいいわけ?」的ないいかげんな部分もない。
野球そのものに価値を見出せず、上っ面だけ〝高校野球は教育の一環〟とかほざく、
高校野球の監督とかにも、ぜひに見てほしい作品だ。
日本の社会にはアメリカの貧困層のような閉塞感はないけど、
高校野球という娯楽、もしくは学校の宣伝で使い捨てられる選手たちの末路を考えると、
やはりこの映画が伝えるメッセージは、グググッと胸に迫ってくる。
この映画をもって、絶対的真理というつもりもないのだが、
カーターがやり遂げたことに、かなりの普遍性があることも、否定はできないはずだ。
現実的な視点を備えた、スポ根もの感動ストーリー、とでもいおうか。
つくづく深い作品だったな、と、ひたすら感心。
必見、という言葉を使いたい、数少ない一本だ。