東野圭吾「容疑者Xの献身」

mike-cat2005-08-29



探偵ガリレオ (文春文庫)」「予知夢 (文春文庫)」の
天才科学者、湯川博士と、大学の同期で文系の草薙刑事が活躍する長編ミステリー
著者本人が「今まで書いてきた作品の中でまちがいなくベスト5に入る」と語る作品。
オビは「運命の数式。命懸けの純愛が生んだ犯罪」。
イカしたギミックが冴えていた連作ミステリーの設定で、
秘密 (文春文庫)」「片想い (文春文庫)」に連なるような恋愛ドラマを描いた、ということらしい。


かつて天才数学者の卵と言われた石神は、いまは冴えない高校の数学教師。
数学以外に興味のないオトコが、最近引っ越してきた隣人の女性、靖子に恋をした。
靖子はロクデナシの夫の手を逃れ、知り合いの弁当屋で働くシングルマザー。
ふたりが顔を合わせるのはいつも、朝の弁当屋の店頭だ。
恋心を募らせる石神はある日、靖子たちが事件に巻き込まれたことを知る。
天才数学者の頭脳を生かし、靖子たちを守ろうとする石神。
捜査に当たった草薙刑事は、どこか違和感を感じつつも、靖子たちの疑惑を晴らせない。
しかし、石神に思わぬ大きな誤算がのしかかる。
大学の同級生で、ただひとり天才同士認め合った男、湯川が立ちはだかったのだ。
天才×天才の対決は、事件の思わぬ真相を、図らずも暴き立てることになる…


あらましはこんな感じ。
犯行を最初に描写し、そのカラクリを暴いていく、というのは「刑事コロンボ」風かも。
これで多分ネタバレにはなっていないと思うけど、もしこのレビュー読んで真相がわかったらごめんなさい。
この小説、オチというかカラクリに関しては文句なく面白い。
石神が、草薙に対し、高校の数学のテスト問題に引っかけて出したヒントがある。
「先生のお作りになる問題は難しそうだ」と訊ねる草薙に、石神がこう応える。
「難しくはありません。ただ、思い込みによる盲点をついているだけです」
「たとえば幾何の問題と見せかけて、じつは関数の問題であるとか」
巧みにミスリードの罠をほのめかしつつ、見破られない自信を存分に見せつける。
そのカラクリを知ったときは、「なるほど」とひたすら感心する。
上級者が読んだらどうだかわからないが、
巧みな伏線を張りつつ、その真相には気づかせない、東野圭吾一流のトリックに見事だまされた。


しかし、そのオチに隠されたドラマ、タイトルそのままの「容疑者Xの献身」が、たまらなく切ない。
数学だけが生きがいの男が、恋に目覚め、変わっていく。
そして、その石神の恋するこころが、ほころびにつながっていく。
そして迎える結末では、思わず「………、なんてコトを!!」と泣き叫びたくなる。
滑稽にすら思える、哀切きわまるラストには、
感情的に耐えられない面もあるし、そうせざるを得ない、と納得する面もある。
まことにアンビバレント(二律背反、を気取って書いてみた)な想いを残す、複雑なラストが演じられる。
ここらへんはまこと〝本人の語るベスト5〟たる、深い深いドラマが描かれていると思う。


さらに、なのだ。この本の面白さはそれだけにとどまらない。
このシリーズの主役、湯川の魅力も存分に描かれている。
たとえば、石神との回想で語られる天才科学者のバックグラウンド。
エルデシュ信者」だの「四色問題」だの「アッペルとハーケンの証明」だの「リーマン予想」だの、
文系ひとすじ、高校以降数学の成績は常に赤点、という僕にはまったく縁のない、
数学用語を連ねながらの回想でありながら、これがまことに読ませる。


安楽椅子探偵とダメな刑事、という湯川&草薙の関係にも微妙な変化がもたらされる。
かつての盟友ともいえる石神への疑念が、湯川を自ら現場に駆り立てる。
シリーズのファンとしては一種のボーナスにもなりうるのだが、
ひとつ間違えばシリーズの本筋を外れたとんだOBにもなりかねないのだが、
さすが東野圭吾といったところか。そこらへんはうまいこと調節し、この作品独特の味わいを作り出している。


僕のように数学といえば、毛嫌いするスジに対しても、
「なぜ数学を学ぶのか」という命題を石神の言葉を通じて説明することで、深く語りかけてくる。
なるほど、こういう数学教師に出会っていれば、との思いを感じないではない。
ちなみに、その石神が世の「体育教師」に対して思う気持ちには、同意しつつも
もと体育系の学生として「全員が全員、そんなヤツらだけじゃない」と、ちょっと言い訳したみたくもなる。
いや、単なる筋肉自慢が非常〜〜〜に多いことは、ホント承知はしているのだけれど。
それはともかく、そうした数学への愛に関しても、とても伝わってくるものがある、いいお話なのだ。


惜しむらくは、ヒロイン靖子の薄っぺらい人間性か。
だからこそ、石神の純愛が哀しく、切ない光を放つのではあるけど、どうにもここは微妙なところ。
たぶん、この靖子を聖人君子にしてしまったら、ここまでこころにグッと迫るドラマにはならない、
と承知しつつも、何とかならなかったものか、と思わずにいられない。


この本にもうひとつ難癖をつけるとすれば、装幀だろうか。
漆黒のカバーはまことにいいんだが、これ指紋がすごくつくわけよ。
発売日の27日に買っても、平積みされたすべての本に指紋がついてる。
もちろん、書店員の方にこの本のためだけに手袋を強要するわけにもいかないし、
ましてや、客が手に取るのはもう逃れようがない。
しかし、買うときぐらいきれいな本を買いたいのだ。
でも、探してみると、黒い部分が擦り切れている本も少なくなかった。
ようやくきれいな一冊を見つけても、こんどは自分の指紋ですぐに模様がつく。
いま、読み終えて書店でつけてくれるカバーを外すと、
「この本を凶器に殺人事件を犯したら、絶対に逃げ様なし」というくらい、ベタベタになってる。
せっかくのいい本だからこそ、何とかして欲しい、と思うわけだ。
別に凶器には使わないから、構わないのかもしれないのだが。


以上、最後に大きく脱線したが、東野圭吾の新しい傑作を堪能、というわけだ。
レベルとしては「白夜行 (集英社文庫)」「秘密 (文春文庫)」に迫る、という感じだろうか。
微妙に及びはしないけど、肩を並べるには十分の傑作。
ああ、読んでよかった、と素直に思える一冊だった。