アスネ・セイエルスタッド「カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語」

mike-cat2005-08-23



ノルウェーオスロ在住の戦場ジャーナリストが、
アフガニスタンで書店を営む、ある家庭の物語を、
タリバンによる圧制の時代から、
米国による〝解放〟後まで詳細に再現した、ノンフィクションだ。


主人公は、家父長として君臨する書店主のスルタンと、その家族の。
このスルタン、かつてはソ連共産党やムジャッヒッディーン、
そして圧制下ではタリバンによる言論・出版統制と戦い続けた進歩主義者だ。
〝スルタンは、代々の政権や検閲官たちを相手に、孤軍奮闘を続けてきたのだ。
 本を警察から隠したり、人に貸し出したりしたのだが、
 結局はそのことがバレて刑務所送りにもなった。
 歴代の独裁者はアフガニスタンの美術や文学をぶち壊そうと躍起になっていたが、
 スルタンは何とかそれを救おうと奮闘したのだ。〟
そして、著者はこう思う。
 〝この人こそ、アフガン文化史そのものであり、歴史の生き証人だ〟と。
そのスルタン、アフガニスタン文化を守る、という使命感に燃え、身体を張る一方で、
イスラムの戒律をいいように解釈して、ガツガツと商売を広げるしたたかさも備え持つ。
そのアクの強さは、まあそれだけで立志伝みたいな小説になりそうな人物ではあるんだが、
この本での主題は、特にそこには置かれていない。


この本が訴えたいテーマとは、
スルタンが見せる、家庭での専制君主ぶりと、虐げられた女たちの姿だ。
タリバン政権下では、教育を受ける権利すらも取り上げられ、
文字通り出産と家事を担うだけの、奴隷の役割を押しつけられた女たち。
それはタリバンが去った後でも、飛躍的な改善をみたわけではない。
むしろ進歩主義者とされるスルタンの家庭においても、
女性の〝解放〟は遅々として進まない姿が、読む者に衝撃を与える。


アフガニスタンでは、いまだ当たり前のように大家族が存在する。
スルタンは第一、第二夫人(そう、一夫多妻制だったりする)とだけでなく、
スルタンの親兄弟までも一緒になって、ひとつの家族として暮らしている。
この一家において、すべての決定を下すのは、つねにスルタンだ。
スルタンの母といえど、何ら権限はない。
息子たちも、スルタンの意志に従う以外、選択肢は与えられていない。
まさに絶対君主が支配する、その家庭内カーストにおいて、
最下層に位置付けられるのは、スルタンの末の妹ライラだ。


〝ライラは小さい頃から人に使えるように育てられ、今では召使いとして、
 みんなからあれをやれこれをやれと命令されてばかりいる。
 家族も命令を出すことに慣れて、ライラに対してはますます気遣いをしなくなっている。
 誰かの機嫌が悪いと、ライラが飛ばっちりを受ける。
 セーターのシミが落ちていないとか、肉の焼き方がまずいとか、八つ当たりの口実はいくらでもある。〟
そんな状況に、誰ひとりとして疑問を覚えたりはしない。
別に年長者が偉いとかいうつもりもないが、
3歳下の甥の言葉には、ただただ絶句するだけだ。
「おばさんが何を言いたいか、口を出す前に分かっちまうんだからな。僕が知っている中で一番退屈な人間さ」
〝おばを支配する主人〟として、こき使い、蔑み、侮辱の言葉を投げつける。


第一夫人のシャリファとて、その地位に安閑とはしていられない。
夫が二人目の妻(それも若妻)を連れてくるという屈辱にも、ひたすら耐えるしかない。
〝離婚は考えられない。なにしろ女のほうから離婚を言い出せば、
 妻の権利や特権をほとんどすべて失ってしまう。
 子どもは夫が親権を得て、元の妻が会うのを拒否することすらできる。
 妻の側は家族の面汚しとして、のけ者にされる。
 財産は一切合切、夫のもの。
 そんなことになったら、シャリファは兄弟の家にやっかいになるしかないのだ。〟
たとえ日本であっても、こんな状況になったら収入の道はほぼ断たれたようなものだが、
ましてや、女性の社会進出がもっともっと制限されているイスラム社会だ。
妻は、夫に生殺与奪のほぼすべてを握られている、といっても言い過ぎではないだろう。


これが、〝進歩主義者〟の家庭での普通の光景。
ひたすら胸が痛むとともに、激しい憤りを覚える。だが、これでもかの地では、まだましな方かも知れない。
過剰の上に過剰を重ねた原理主義で、ひとびとを支配し、
歴史的遺産の破壊だけでなく、アフガニスタンの文化そのものを踏みつけにしてきた、
タリバンの異常性もさることながら、この家庭における〝圧政〟も、やはりすさまじい。


文化の違い、価値観の違い、というものについては、理解している。
イスラム文化圏のヒトたちからみれば、
西欧的な価値観に〝毒された〟批判は、お門違い、という考え方もできるのだろう。
確かに、西欧的価値観=近代的とするのは、乱暴な話でもある。
実際、自分たちの生活に照らし合わせてみれば、数十年前の日本人だって、
「女は幼くは親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従え」と平気でいっていたのだ。
正しい、正しくないでいえば、〝正しくない〟のだが、
その社会に対し「おかしい」と指摘したところで、〝何がどう、正しくないのか〟理解するのはムリなのだ。


だからといって、看過できる問題ではない。
女性が虐げられる価値観や文化が許されるはずもない。
というか、この国のオトコたちは、虐げているどころか、守ってやってるぐらいに思っているだろうけど。
だいたい、イスラムの教え=女性の権利を過剰に制限する、というのが怪しい。
まあ、宗教は全般にそうだけど、
基本的には為政者によって利用されるのが常だから、当然どこかでねじ曲げられているはずだ。
それはキリスト教だって、儒教だって、神道だって、仏教だってみんな同じ。
だいたいが、宗教は本来、人の気持ちを豊かにして、
幸福にするための〝信仰〟を、ある形にまとめたものであって、
人を不幸にする、虐げるような宗教は、信じるに値しないはずだ。
だから、「イスラムの教えだ」という主張には、
それは都合よく〝ねじ曲げられた教え〟じゃないの? という疑問を投げかけるのが当然の理屈だろう。


とはいえ、それをここで主張しても、アフガニスタンの女性が解放されるわけでもなし、なのだ。
ただただ、無力感に苛まれるしかないのだが、
こうした事実を知らないよりもまし、と納得するべきか、
こうした事実を知りながら、手をこまねくしかない現実に、罪の意識を覚えるべきか…
ああ、悩み深い本を読んでしまった、という感じ。
もちろん、読み応えは十分。構成も飽きさせないし、テンポよく読み切れる。
だが、読み終えると肩には重い、重い十字架が…。つくづく、悩み深い本なのだ。