山本幸久「はなうた日和」

mike-cat2005-08-15



本の雑誌」最新号、北上次郎のイチ押し本。
下高井戸と三軒茶屋の間をつなぐ、
東京のローカル路線・東急世田谷線沿線を舞台にした、
さまざまな人間模様を、かすかにリンクさせながら描く連作集だ。
出てくる駅名は豪徳寺だったり、宮の坂だったり、世田谷だったり。
沿線の方にはまことにたまらないだろうけど、
別に沿線住民でなくても十分楽しめるので、別に心配はない。
都電荒川線とともに、都内では最後となった路面電車の風情さえ、
頭に思い浮かべることができれば、その雰囲気は感じることができる。


全編にわたって、特別大きな事件は起こらない。
日常をちょっと逸脱した小さな事件や、出来事ばかりだ。
風合いとしては、ペーソスがある、というぐらいのさじ加減。
切実すぎもせず、滑稽すぎもしない。
読んでいて、クスッとなったり、クッときたり(グッとくる、より軽い)。
日常から切り取られた一場面一場面が、繊細な輝きを放つ。


物語の展開自体も、比較的緩やかに進んでいく。
はっきりとした起承転結で、語られる物語ではない。
なにかが起こっても、
問題解決という結実を見なかったり、うやむやなままに終わってしまったり…
冒頭の「閣下のお出まし」では、あれ、そこで終わってしまうの?、と感じるが、
読み進めるにしたがって、
物語を〝描き切らないこと〟によってもたらされる効果が、次第に際立ってくる。
一種の様式美みたいなもの、といったらいいのだろうか、
〝描ききらない〟スタイルで統一することで、相乗効果をもたらすのだ。


そんな、一つ間違えば、読み流してしまいそうなぐらい、
微妙なストーリーを彩るのは、個性豊かな登場人物たちだ。
会ったことのない父親のもとを訪ねる少年、
犬になめられ切っている、犬の散歩代行業者、
女優の夢を追い掛け、東京を転々とするタレント、
会社のエリート研究員(美女)に気に入られたアニメ・戦隊ものオタク(デブ)、
亡き夫の想い出深い世田谷線沿線で迷子になる老女…
どれをとっても〝いそうでいない〟か〝いるかもしれない〟の間ぐらい。
この、絶妙のキャラクター設定も、この小説ならでは、の味わいを醸し出す。


たとえば冒頭の「閣下のお出まし」。
シングルマザーの母と口論し、家を飛び出した〝一番〟が、
まだ見ぬ父のもとを訪ね、出会うのは、父と同棲する女性の連れ子、同い年のハジメだ。
それぞれが多少なりとも鬱屈を抱える同士。
子どもの感情にルーズな父親ヨシオに悩む少年たちには、
切なさを覚えずにはいられないのだが、それを救うのがハジメの屈託のなさだ。
ヨシオの無神経な言葉にも拗ねることなく、
心にしこりを残さず対処していくその姿は、たくましくもほほ笑ましい。


「意外な兄弟」も、人物描写の懐の深さが、とても印象深い一編だ。
あこがれの君でもあり、いまは人妻となったエリート研究員、頼子が
〝アニオタデブ〟沼野に示す、くすぐったいような好意と、
沼野が頼子に抱く、ほのかな恋情みたいなのが、
読んでいて、照れくさいような、でも、思わずほわっとくるような、複雑な感情を呼び起こす。
実際の〝アニオタデブ〟でこの展開を想像するのはかなり嫌ではあるけど、
この小説の中で描かれるファンタジーの〝アニオタデブ〟は、
いいトコ取りで不思議なリアル感を醸し出していて、
この作者、うまいなあ、とひたすら感心させられる。


もちろん、もう少し濃いめの味つけの〝いい話〟がお好きな方の中には、
多少もの足りない、という感想を覚える人もいるかもしれない。
でも、感動の押しつけみたいな作為的な小説も多い中、
たまにはこういう淡い味つけの小説も悪くない。
傑作、というには厳しい面もあるけど、読んで後悔のない一冊、じゃないかと。
読み終えて、そして散歩がてら世田谷線に乗りに行くのも、悪くないと思う。