スティーヴン・ウォーカー「カウントダウン・ヒロシマ」

mike-cat2005-08-12



広島への原爆投下のカウントダウンを、多角的に再現したノンフィクション。
ニューメキシコ州での実験から、運命の日、1945年8月6日までを、
J・ロバート・オッペンハイマーら、ロスアラモス研究所の科学者たち、
ポール・ウォーフィールド・ティビッツ大佐ら、「エノラ・ゲイ」の乗務員たち、
ハリー・S・トルーマン大統領を始めとする政府や、軍上層部たち、
昭和天皇を始めとする、大日本帝国の軍及び政府の上層部たち、
そして、何よりも実際に被爆した広島市民、そして目撃者たち…
あらゆる立場から、人類史上に残る〝事件〟を振り返る。


読みながら思ったことは、まずひとつ。
「これが、現実に起きたことじゃなければ…」だ。
極めて不穏当な表現だが、本として〝非常に面白い〟
これが、単に空想の世界の出来事であったら、どんなによかったことだろう。
爆弾投下以後の描写は、凄惨を極める。
地獄絵図という言葉すら、あまりに軽く、空虚に過ぎるのだろう。
それでも恐らく実際の光景には、遠く及ばないはずだ。
爆弾投下直前のカウントダウン描写には、慟哭に近い感情すら呼び起こされる。
そして、投下後の描写には、感情の持ってゆき先が見当たらない。
それでも、そんな事態に至った経緯を詳細なインタビューと資料で、
緻密にたどったこの本には、とてつもなく重い読み応えがある。


著者は、ロンドン在住の元BBCドキュメンタリー監督。
だが、米国人などによくあるような
「原爆投下はしかたがなかった」的な歴史観にとらわれてはいない。
その事態を招いた政情や、政治家たちの判断を冷静に振り返りながら
〝人類史上類を見ない非人道的な大量殺人〟であった、との視点を欠かさない。
もちろん、歴史観というものに〝これが正解〟がない以上、
100%ということはあり得ないとは承知しているんだが、
可能な限りフェアな立場から、この事件を振り返ったドキュメントに思える。


よく言われる「なぜ広島だったのか、なぜ京都は難を逃れたのか」
の新事実と思わしきエピソードや、
原爆の起爆装置に、八木アンテナが開発したレーダーが使われていた、
という日本にとって、あまりにも皮肉なエピソード、
また、当時広島にいた米軍捕虜が後日、
投下地点でリンチの上虐殺された事件なども織り込まれていて、
この事件に対して、あらためて知ることもかなり数多い。


また、この原爆投下に関わった人間たちのエピソードも詳細に描かれることで、
「なぜ、あんな非道ができたのか?」の問いにも、わずかながらの解答が示される。
もちろん、被爆者たちの立場も〝極悪非道のジャップ〟ではなく、
兵士たちの家族と同じ〝ひとりひとりの人間〟と描かれることで、
被爆国の痛みを知らない(もしくは、過小評価する)多くの米国人たちにも、
その重みをわずかながらも、伝えることができるんじゃないだろうか、と思う。


また、この本は、永遠のテーマでもある、
「原爆投下は、避けられなかったか」についても、あらためて深く考えさせられる本だ。
必然であったかどうか、は論外だろう。
その残虐非道な威力は、戦争・戦術の域をはるかに越えている。
ましてや、民間人を巻き込んだ大量虐殺だ。
〝戦争を終わらせるためには〟で許されるレベルでないことは誰の目にも明らかだろう。
本の中で、著者は明確にそのメッセージは記してはいないが、
被爆者たちの視点から描かれた描写を読めば、その意志は読み取れる。


むしろこの本が提示するのは、さまざまな場面での〝if(もし…)〟だ。
暗中模索で進んだ実験から、実際の作戦までは、綱渡りの連続だった。
原爆がもたらす〝真の恐怖〟を知った科学者たちの反対運動から、
軍部内でのさまざまな綱引き、そして、戦後を見すえた、米英とソ連との駆け引きや、
間抜けにもソ連に和平の仲介を期待した、日本政府の穏健派の動き、
小倉と長崎の命運を分けた、その日の天気などなど…
ちょっとした〝if〟があれば、
歴史はすべて変わっていたのでは、と思わせる箇所は数知れない。


少なくとも、日本政府がポツダム宣言受諾までの決断を、
もっと早くに下していれば、の念は強い。
もちろん、開戦自体も問題だが、ムダに終戦を引き延ばした罪は、果てしなく重い。
また、〝せめて〟というレベルに過ぎないが、
広島への原爆投下後すら、「一億玉砕」の強硬論を抑えつけられなかった、
ことへの憤りは、何があっても消えることはないだろう。
何せ、玉砕を主張していた張本人たちは、
6000万度の光と熱で一瞬のうちに焼け尽きることもなければ、
全身を黒焦げのまま、街をさまよい歩くこともなかったし、
放射線の影響で、長く苦しみ続けることもなかったのだから。


また、立場上そういわざるを得ないのは想像に易いが、
トルーマンがその後「同じ状況に陥ったら同じ命令を下す」とのたまったことも、
書面上、表面上でしか、事態をとらえていない政治家らしい言葉だと、憤りを覚える。
「本土決戦になったら、米軍側の損失も甚大」と思わせた日本軍のカミカゼぶりにも、
あらためて呆れるしかないのも、これまた事実ではあるんだが。


語り出したら尽きることのない話題なので、このへんに留めておくが、
ありとあらゆる感情や思考が喚起される本であることには間違いない。
戦後60年。その悲惨な記憶が、次第に薄れていく中で、
読むべき、読まなければならない本である、という結論は、
あまりにもありきたりかもしれないが、厳然たる事実だと思う。
これまでも〝被爆国〟日本の立場から描かれたものは数多くあったが
〝加害者〟〝被害者〟の両サイドから描いた、優れた本には、
なかなか接する機会もなかったと思う。
その1点だけで考えても、少なくとも一読の価値はあるはずだ、と。